5、供物乙女は言いたい

第16話

朝食を終えた桐也が、台所に温乃を迎えに来た。


「温乃」

「キイヤ」


 温乃の横で面倒を見ていたシヅは静かに会釈する。他の女中はおのおの仕事に戻っていた。


「プいン、つくるの」

「プリンを作るのかい?」


 桐也の視線がシヅに向く。


「はい。昨日桐也様と召し上がったプリンが美味しかったと教えてくださいましたので。タマさんがここで作ろうかと。材料もありますし、そう難しい工程もございませんので」

「そうか。家でも作れるものなのだな」

「つくるの」


 あまり表情も声音も変わらない温乃の声に浮き浮きしたものが見える。それを桐也もシヅも感じたのだろう。二人の顔がわずかに緩む。


「お昼は大事なお仕事があると早川さんからお聞きしました。ですので温乃さんは桐也様のお帰りをここでプリンを作りながら待つことができれば、と思ったのですが……。いかがでしょうか?」

「それは、温乃次第になるが……」


 桐也の視線が温乃に向かう。

 桐也が戻ってくる前に台所へ顔を出した早川が、桐也の昼食は不要だと伝えにきたのだ。その際に『大事な商談がある』と早川がシヅに言ったのを温乃も聞いていた。


 早川が真剣な表情で『大事な商談がある』と言ったので、温乃が邪魔をしてはいけないのだろうと思う。

 だから桐也から離れることが寂しくても我慢しなければならない。


「タマとシヅと、プいンつくる。キイヤのプいンもつくるの」


 良い子にして待ってるから、お仕事の邪魔しないから、だから早く帰ってきてね――という気持ちは声に出さなかった。


 タマとシヅと過ごす時間を重ねたことで、二人に悪意も害意もないことを温乃も理解していた。

 加代のように食事にいたずらをしたり、若奥様のように奇声を上げて叩かれることもない。


 温乃はここでの生活が安心できるものであると、そう思えるようになっていた。


 プリンを作ると繰り返し言う温乃の前で桐也が楽しみだと笑う。


 その二人の姿を穏やかな表情で見ていたシヅだが、温乃の言葉にふと気付きを見つけた。


「温乃さん、『る』が言えるのね?」

「るは、はるの、とおるのる」

「そうなんだよ。温乃はラ行の中で『る』だけ言えるんだ」


 桐也がそう言うと、シヅがふむとひとつ考える。


「温乃さん、『るるるる』と続けて言えますか?」

「るるウ、る? る、る」

「とてもお上手ですよ」


 桐也が不思議そうな顔をしている。


「もう一度言ってみましょう。るるるるる」

「るウるるる」


 温乃が何かに気付いたように口を開いて、口の中を指差した。


「歯に、ちょんちょん、してる」

「そうなのです! 今度はちょんちょんしながら『ら』に挑戦してみましょう!」


 温乃は小首を傾げて『ア』と言った。『ら』と言ったつもりだが『ら』にはならなかった。


「焦らないでくださいね。まずは『るるるるラ』です。どうぞ?」


 温乃はシヅの教え通りに発音に挑む。


「るるるる、ラ。……?」


 桐也とシヅの顔が輝いた。その表情を見て、温乃は自分がきちんと『ら』が言えたのだと分かる。


「私が教えても出来なかったのに、凄いぞ温乃! シヅもさすがだな! その教え方はどこで習ったのだ?」


 シヅは苦笑する。


「息子が、しばらく発音が難しく様々なことを試しながら教えていたのです」

「シヅには息子がいたのか?」


 桐也はシヅに夫がいることは知っていたが、息子がいたとは初耳だった。シヅの歳を考えれば、その息子はもう成人している可能性もある。


「隠していたわけではありませんが、言いふらすことではございませんので黙っておりましたが、八つの時に亡くなりました」

「そうだったのか、済まぬ」

「いいえ。……落ち込んでばかりもいられませんので仕事を探し、それでこちらにご縁をいただきましたから」


 シヅが加藤邸で雇われたのは十四〜十五年前になるだろうか。桐也が中学生の時だった。


 さあ、とシヅが明るい声を出し雰囲気を変える。


「温乃さん、もうひとつ頑張りましょう! お次は『り』ですよ」


 温乃はしっかりと頷いた。『り』が言えれば大好きな桐也も、美味しいプリンもきちんと発音することができるのだ。これだけは何としても出来なければならない。


「それでは参りますよ。――るるるるリ」


 温乃は静かに息を吸う。


「るウるウ、イ!」


 ずんと沈む顔の温乃の肩に温かい手がのせられる。桐也の手だ。


「肩に力が入り過ぎだ。力を抜いてごらん? 深呼吸して、美味しいプリンを思い出してみて?」


 黄色のプリンが口の中に入る。舌の上に広がる甘みに涎がたまる。それを飲み込んで、息をふうと吐き出した。

 

 小鳥がさえずるようなささやきで、シヅが「るるるるリ」「るるるるリ」と鳴く。

 桐也の手が優しく肩をトントンと叩く。背中が温かい。


 すうと息を吸い、ふうと息を吐く。開いた口に空気が入る。


「るるるる、リ」

「温乃!!」


 肩にあった手が温乃の胸の前に移動して、抱きしめられる。

 

「やったぁ! 凄いぞ、温乃〜!!」


 温乃よりも喜んでいる桐也を見て、温乃の頬がひくりと動く。嬉しいという気持ちが笑顔を作る。それは微笑にも程遠い笑顔だったが、温乃が初めて笑い、美しい笑顔を作る第一歩となったのだった。


 


 温乃は桐也に抱き上げられ、そのまま台所を出る。隣の小さな部屋に帰れば、桐也は寝台に温乃を座らせた。


「るるるるリ」


 息が漏れるような小さな声で温乃は練習する。


「るるるるラ」

「上手だな」

「るるるるリ」


 桐也が温乃の足首に触れる。そっと持ち上げて足首を動かした。


「痛くないかい?」


 温乃は頷く。


「キイヤ」

「痛い?」

「き、るるるるリ、ヤ」


 温乃は早く『きりや』と言いたかった。

 るるるる、と小さく繰り返し、それから『る』を短くしていく。


「き、るるリ、ヤ」


 桐也がどこかわくわくした表情で待ち遠しいと笑っている。


「き、るリ、ヤ。き、……り、や」


 ゆっくりとだが慣れてきた温乃は、次こそは止まることなく流れるように名前を呼びたいと、続けて頑張る。


 桐也も温乃の足首を優しく刺激しながら、その時を待っていた。


「き、……りや」


 どうしても『り』の前に一拍空いてしまう。だが温乃はくじけることなく努力する。


「き、りや。……き、りや」


 あと一歩だと桐也が微笑む。


「きり、や。きり、……きりや」

「おおっ!」

「きりや」

「すごいぞ、温乃! 言えたじゃないか!」

「言えた! きりや、きりや!!」


 温乃は嬉しくて何度も繰り返す。

 偉いぞ、と言いながら桐也が頭を撫でてくれるのが気持ちいい。


 その時、襖の向こうで「失礼します」と早川の声がした。


「早川入ってくれ」

「はい」


 早川が襖を開ける。二人の嬉しそうな視線を受けた早川は一瞬だけたじろいだ。


「いかがなさいましたか?」

「温乃、早川にも披露してやるといい」


 何が始まるのだという早川の視線を受けながら温乃は「い」っと口を横に開いて構える。


「きりや!」

「……えっ!? 今、もしや!!」

「きりや!」

「おお!! とうとう桐也様のお名前を言えるようになったのですね!」


 早川も目を丸くして驚き、そして一拍遅れて喜んでくれた。


「うん。言えるの」

「どうだ、凄いだろう温乃は!」

「はい。とても素晴らしいです。やはり多くの人の中で会話を耳にして、たくさん言葉を出さなければならないのですね。そうでなければ人間は話すという行為を忘れてしまうのでしょう。舌の動きも退化し、食事を摂取するだけの器官となるやも――」

「早川」


 桐也が早川の話を遮る。


「小難しい話は後で良い」

「申し訳ございません」

「もう出る時間か?」


 桐也が時計を確認する。


「はい。支度を整えましたら出発いたします」

「分かった。温乃、ではそろそろ行って来る。温乃は台所に行っておくか? タマかシヅかどちらかいるだろう」


 コクンと頷けば桐也が抱き上げてくれる。

 今度は自分の足で歩けたならば、桐也はまた喜んでくれるだろうか、喜んで欲しいなと温乃は思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る