第15話
――助けて。
温乃は夢の中で声を聞く。
(ごめんね、あたしには助けられないよ)
『喋るなと言ったでしょ!!』
温乃は頬をぶたれた。
『あんたは人じゃないの。供物なの、山神様の供物なの。人のように喋るんじゃないわよ!!』
また叩かれた。手を上げているのは若奥様だ。あと何回叩かれるだろう。頭をあげる気力がなくなって、床に伏せたままでいると今度は背中を蹴られる。
『喋るな! 喋るな! 絶対に喋るな! 次に喋ったらその口を縫いつけてやる!』
――助けて。
向こうの障子の影から加代がこちらを見ている。でも加代は助けてくれない。一度も助けてくれたことなどない。
なぜなら加代が見ているのは温乃ではなく、母親の背中。
激しい衝撃に耐えられず漏れてしまったうめき声を隠すように、温乃は両手で口を押さえる。
だがわずかに漏れた声をも若奥様が見逃すことはない。近くにあった花台に手を伸ばし、花瓶を温乃に向けて投げつける。
――痛い、助けて。誰か、助けて?
『泣いてるの? あれ? 喋れない? 人と話すな、とでも言われたんでしょ? はは、やっぱりそうか。でも残念。残念だけどね、おいらは人じゃないんだ。何に見える?』
――助けて。
*
「うさぎ?」
「んん、起きたの? 温乃」
桐也の掠れた声を聞いて、温乃は夢を見ていたのだと思った。夢の内容はおぼろげで、煙が立ち消えるように記憶が溶けていく。
だが頭の中に懐かしい声が残っていた。
桐也と出会うよりも随分と昔に、温乃へ安堵を与えていた存在が脳裡に去来する。
「どうした? お腹が空いた?」
そうではない、と首を横に振る。何か大切な、何かとても大事なことが霞んでいく。
「分かアない」
「そう深刻な顔をしなくても大丈夫だよ。大事なことならすぐに思い出すさ」
そうなのかな、と思ったが、桐也が言うのだ。すぐに思い出すことができそうな気がした。
「あ〜、出汁の良い匂いがするな。朝食は何だろうか? 楽しみだな!」
鼻を動かす桐也を真似て温乃も匂いを嗅ぐ。
板壁一枚隔てた向こうから食欲をそそる芳しい匂いがした。
「かつおだし」
昨日、この匂いは何かと問うたら、そう教えてくれたのは桐也だ。
「おっ、よく分かったな!」
桐也に褒められて嬉しい。心が温かくなる。こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。
以前にも温乃は味わったことがある。この心地よい温かさを。
「おはようございます。起きていらっしゃいますか?」
シヅの声に二人の視線が襖に向かう。
「起きてるぞ」
「失礼します。朝食が整いました」
「分かった。温乃、しばらく待っていてくれ」
桐也は朝だけは家族と一緒に食事を取らなければならないのだと言った。だから、朝食の時間だけは温乃と一緒にいることができない。
「よろしければ、温乃さんは女中らと共に食事をお取りしませんか? 一人きりでは寂しいでしょうし」
シヅの言葉を聞いて桐也が温乃を見る。
「そうか……。温乃もシヅにはだいぶ慣れたみたいだしな。一人でここに残るよりいいとは思うが、……温乃の気持ちはどうだろうか?」
桐也の目が、どちらでもいいよ、と優しく微笑んでいる。
「シヅ、タマ、いっしょにごはん?」
「そうだよ。隣の台所でシヅとタマと一緒だ」
桐也から離れることはまだ怖いが、台所には興味がある。美味しいごはんが作られる場所に行ってみたいという気持ちが、怖さを半分消し飛ばした。
「どうしても戻りたいと思ったら、食事の途中でもシヅの袖を引っ張るといい。『戻りたい』という合図だ」
温乃ができる範囲で行動を広げることができると桐也が言葉をそっと添えてくれる。
桐也の親切心に応えてみようと、温乃はうん、とゆっくり頷いた。
「そうか。では台所までお供いたしましょう」
桐也は得意気な顔でそう言うと温乃を抱き上げた。温乃もいつも通りに桐也の首に手を回す。
隣までの距離は桐也の長い足で三歩しかない。温乃が這って行っても数秒で着く距離なのに、桐也は大事な物を運ぶように丁寧に温乃を抱えてくれる。
「おはよう」
「桐也様。おはようございます」
台所内にいた女中はタマを含めて二人だった。
女中たちは温乃がタマの孫ではないことを知っている。
桐也が表向きにそうしたのは、家族から余計な詮索をされたくないがため。しかしすでに義兄の直哉には『ゴミを拾ってきた』と言われてしまったので、タマの孫という設定は無意味かもしれない。
「私は食堂に行く。タマ、温乃を頼むぞ」
「かしこまりました」
タマが頭を下げるその横で、シヅが温乃用に椅子を用意した。
桐也に下ろされた温乃は台所内が見渡せる端に座る。そこは出入りの激しい台所内で誰の邪魔にもならない場所だった。
「温乃、しっかり食べるんだよ」
温乃は桐也を安心させるように大きく首肯する。
桐也の背中がなくなると、女中が二人戻ってくる。その二人はまた慌ただしくお膳を持って出て行った。
「温乃さんには野菜を刻んだお粥とおすましね。他にも食べれそうなら教えてくださいね」
そう言いながらタマが温乃の前にお椀を二つ並べる。すまし汁には豆腐が入っていた。
温乃の隣にタマは自分の分だろう皿を並べて手を合わせる。
「いただきます」
温乃もタマにならって手を合わせた。前までは山神様に手を合わせていたが、今は何に手を合わせているのかよく分からない。
タマは茶碗に半分の白米とおすまし、根菜の煮物、香の物が朝食のようだった。どれも小さな器に少しずつ盛られている。
忙しなく動いていたシヅも温乃の隣に朝食を並べ始めた。タマより量が多いのが分かる。
他の女中も手が空いたものから自分の食事を並べ、用意できたものから食べ始めた。
「温乃さん? 食べられる?」
大勢と食事を取ることが初めての温乃は、どうやら圧倒されていたようだ。
シヅが木匙を手渡してくれる。
野菜粥をすくい、口に運ぶ。かつおだしの味が広がり、もうひと口食べずにはいられない。
「お口に合って良かったわ」
「タマさんがお粥を作ったのよ」
「おいし」
「温乃さんが好きなもの、たくさん教えてね。たくさん作ってあげるか」
好きなものと聞いて、昨日食べたものが頭に浮かぶ。
「プいン、キイヤと食べた」
「ぷいん?」
「もしかしてプリンのこと?」
そうだ、とぶんぶん首を縦に振る。
「『り』と言うのが難しいのね」
可哀相だとでもいう表情のタマを見て、温乃は恥ずかしい気持ちになった。
「ねえ、やはりそうだと思わない?」
向かい側で、密やかに話す声が聞こえてくる。まだ若い二人の声はいくら声を潜めていても台所内にいれば聞こえてしまう。
「だって旦那様は鼻筋がすっと通っているでしょう? 奥様は小鼻で可愛らしい感じだけれど、直哉様はどちらにも似ていないじゃない?」
「あのペチャっとした鼻は――」
シヅが咳払いをする。
若い二人は口をさっと閉じて寄せ合っていた頭を戻すと、何でもなかったように食事を再開させた。
温乃は自分の鼻を撫でた。そしてタマとシヅの鼻を見る。こうして他人の顔をまじまじと見たのは初めてかもしれない。
桐也の鼻はどうだっただろう、と素直に疑問が浮かぶ。だが温乃には『鼻筋がすっ』も『小鼻』も『ペチャ』もどういう感じかさっぱり分からない。
「温乃さん?」
タマと目が合う。
「あたし、すっ? ぺちゃ?」
そう聞いてみた。タマは目を丸くして動きを止める。対して向かいの二人がくすりと笑うので、温乃は正面に顔を向ける。
「貴女の鼻は普通よ」
「ふつー?」
「そうですよね、シヅさん?」
「まあ、そうね。一般的なお鼻よね。はい、お話は終わり。ご飯をいただいたら仕事に戻るわよ」
間延びした返答が若い二人から返ってきた。
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