4、供物乙女は知りたい

第13話

――助けて。




 声が聞こえる。懐かしい声。


 目が覚めた温乃はその瞳に桐也を映す。あの後、風呂から戻った桐也は温乃に玉子粥を食べさせてくれ、それからお汁粉を用意してくれた。初めて食べる餅が喉につまりそうになって咳込んだら、桐也が背中を優しく撫でてくれたのだ。

 お腹が満たされるという感覚を初めて知りながら、眠気が襲ってきたところまで覚えている。


 あの祠から出る日が来るなど夢にも思わなかった。

 温乃は山神様のもので、祠から出たいなどという希望は不要のもの。山神様への冒涜となり得る。


 山神様に捧げられた身は、山神様に食べてもらうまでの命。供物に意思などいらないのだ。


 希望を抱けばそれだけ苦しみを味わうことになる。

 祠に閉じ込められて気が触れなかったのは話し相手がいたから。しかしその話し相手が殺されてしまった温乃は希望を手放した。


 温乃に自由が与えられるのは、山神様に食べられたあとになるのだろうとずっと思っていた。


 丸まっていた手足をゆっくりと伸ばす。

 今まで茣蓙の上で寝ていた温乃は初めて布団の上に横になった。


 桐也の隣には、温乃の『初めて』がたくさんある。


「温乃? 起きたのかい?」


 掠れた声。桐也の目蓋は半分も開いてない。


「眠れるなら、もう少し眠りなさい」


 桐也の腕が温乃のお腹にのる。もう一方の腕が温乃の背中に回り、桐也の胸に引き寄せられた。


 桐也の胸に顔をうずめると、雨と土の匂いが消えている。


「キーヤ」

「ん?」


 規則正しい心音が耳に心地よく響く。温乃もまた目蓋が重くなって目を閉じた。

 二人の寝息が混じる。


 眠りに落ちる温乃の耳に、助けてという声が聞こえた気がした。





 また初めてのものに乗る。 

 自動車だと桐也は教えてくれた。


 自動車を動かすのは早川で、人力車よりは早く、汽車よりは遅い。

 どこに行くのだろうという疑問も温乃は抱いていなかった。されるがままに任せている。


 朝も満腹を感じるほどの食事を食べさせられ、銘仙という着物に着替えさせられた。髪の毛は傷んでいるようで、タマが苦労しながら櫛を通していた。温乃は髪の毛が引っ張られて痛かったが、一度も痛いとは言わなかった。

 苦痛の声をあげれば叩かれたり蹴られたりする。その記憶が温乃にはしっかりと残っているのだ。


 自動車が止まる。前方に傾いた温乃の身体を桐也が支え、そのまま抱き上げた。


「降りるぞ」


 先に降りた早川が扉を開ける。

 自動車から降りた桐也は大きな白い建物に向かった。掲げられた看板には文字が書いてあるが温乃には読めない。


 看板には『大塚醫院』とある。


 建物の中に入れば独特の匂いが鼻につく。嫌な匂いではなかったので、温乃は鼻を動かした。


「薬品の匂いが気になるかい?」

「やく?」

「薬だよ」

「くすイ、知ってる」


 桐也が微笑むので温乃は嬉しくなった。薬研で葉っぱをたくさん潰したのだと話してみようかと思ったが、桐也が足を止めたので温乃は話すのをやめた。


「大塚先生」

「桐也くんか。どうぞ」


 桐也は扉が明け放された部屋に入る。

 奥の椅子に腰掛けた壮年の男は白衣を纏って万年筆を紙の上に走らせていた。


「今日は見舞いではないのかな? その娘は?」


 白衣の男、大塚が万年筆を置いて立ち上がり、桐也の元へ近付く。鼻の下にちょびっと生えた髭を撫でながら温乃を上から下まで見ている。


「足を診ていただきたくて」

「ふむ。そこに座らせなさい」


 大塚が示したのは寝台のような診察台。そこに温乃は座らされる。


「触るよ」


 温乃の痣が濃く残る足首を手にした大塚は、指で触ったり押したり、それから足首を曲げたりする。かと思えば足裏をくすぐられて温乃の膝がちょこっと伸びた。


「足首が折れたことはある? 昔、派手に転んでしまったとか……」


 転ぶこともあったが、温乃の頭に安治が浮かぶ。


「大塚先生、多分それは……転んだのではなく、故意に折られたみたいです」

「そうか。嫌な記憶を思い出させたね」


 温乃は目の前にいる大塚が泣きそうな顔を作ったのが不思議だった。大塚もどこか痛いのだろうか。


「大丈夫。お嬢さんの足は動くよ。まずはしっかり滋養のある食事を摂ろう」


 今にも折れそうな腕には骨と皮しかない。あばらも浮いている。


「あとは刺激を与えて、少しずつ動かしていけば歩けるようになるかもしれないね」

「先生、温乃は歩けるようになりますか!?」

「ああ、絶対とは言えないが。頑張り次第では一人で立てるだろうね」


 温乃は桐也の顔を見た。温乃が見た中で一番喜んだ表情をしているように見えた。


「打ち身に効果のある塗り薬を処方しよう」


 大塚は壁際にある薬棚から薬草を数種類取り出すと調合を始めた。


「知ってる。葉っぱ。くすイ、つくエる」

「作れる? この薬草を知っているのかな?」


 温乃は大塚に向かって首肯すると、薬研を指差した。


「あたしの、しごと」

「やってみる?」


 温乃は顔を上げてから大きく頷いた。


「桐也くん、そのお嬢さんをこちらに座らせてあげて」

「はい」


 温乃は桐也に抱きかかえられて、薬研の前の椅子に座らされた。

 大塚が薬研に薬草を入れる。


「どうぞ、始めてください」

「うん」


 温乃は軸の付いた薬研車を持つと薬草を丁寧にく。


「ああ、とても上手だね。助手に欲しいくらいだ」


 きっと冗談だろうと思ったが、温乃が大塚を見ると真剣な顔をしていた。


「お母さんには会って来たのかな?」

「いえ、これからです」

「それなら温乃さんはここで見ていてもいいけど、どうする?」


 お母さんというのは桐也の母のことだろうか、と温乃は考える。二人の会話から、桐也の母はこの建物のどこかにいるのだろうと思った。


「診察の邪魔にはなりませんか?」

「そんなことはない。優秀な助手だからね。お小遣いも出してあげよう」

「しかし……」


 桐也が温乃に視線を向ける。


「私と少しの時間さよならできるかい? ここで大塚先生の手伝いをしているんだよ?」

「葉っぱのおしごと?」

「そうだよ。廊下には早川がいるから何かあれば早川を呼ぶといい」

「うん」


 桐也が温かい手で温乃の頭を撫でてくれた。


「お母さんも急に連れて行ったら驚くだろうからね。次は連れて行ってもいいか確認してみなさい」

「分かりました。よろしくお願いします」


 お辞儀をして桐也が部屋を出ていく。温乃は寂しい気持ちを堪えてその背中を見送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る