3、供物乙女は怖い
第10話
加藤邸の北東側にある勝手口の前から南の方を向けば、そこは洗濯物を干す場所になっている。洗い場のために水道も通っていた。
桐也は乾かしていたたらいをひっくり返して、そこに温乃を座らせる。
桐也は靴を脱いで裸足になり、別の桶に水を張る。
水を張ったたらいに、温乃の足をひたした。
「つめたい」
「感覚はあるのか?」
歩けない足には、感覚さえ残っていないのだと思っていた桐也だが、しかし温乃は確かに水を冷たいと感じたようだ。
桐也は今度は温乃の足の甲、足の裏を優しく撫でながら汚れを落としていく。
「ひ、ひひ……」
「こそばゆい?」
「ぞわぞわ、いひひ」
「少しだけ我慢してくれるかい」
温乃の足指の間に指を通すと、これもくすぐったいのだろう、温乃の膝がわずかに伸びる。
「温乃はもともと歩くことができない? それとも歩くことができていたのかな?」
「……山神様の、お部屋にいくとき……」
言い難そうにしながらも、温乃はゆっくりと桐也に話そうとしてくれる。
桐也は急かすことなく、汚れを落とすほうに意識を向け、温乃が口を薄く開く度に耳を傾けた。
「……あたし一人で、歩けた」
垢も随分たまっている。土汚れだけ落として、あとはタマに任せたほうが綺麗になるだろう。
「……安治が、あたしを引っ張って」
反対の足を触ると、温乃が「ししし」と笑う。笑い方が愛らしいと思った桐也の頬まで緩む。
「……山神様のお部屋に入って、安治が……」
温乃が桐也の手に視線を向ける。いや手ではない。温乃の足首に向いている。
それから温乃は両手を軽く握って、手の平の中に空洞を作った。
どうするのかと手を止めて桐也は注視する。
温乃は、空洞の中に木の枝でもあるような様子で、それを勢いよく折った。
「ぐしゃ」
桐也は想像した。
きっと温乃の手は安治の手なのだ。そして安治の手の中にある木の枝と思ったものこそ、温乃の足首なのではないか。
戦慄した桐也は温乃の手から視線を上げて、温乃の顔を見る。
「まさか、安治に折られたのか?」
温乃は何でもないように首肯した。
「逃げエない。歩けない。安治が言った」
きっと激しい痛みに叫び涙しただろう。なんと酷なことをするのだと、怒りが再燃する。温乃をあの村から逃がして正解だった。安治から引き離すことができて良かったと安堵する。
「それから足に縄を巻かれて、柱にくくりつけられたのかい?」
温乃が頷いたところで、足音が近付いてくることに気付いた。音の方に顔を向ければ女中頭のタマと息子の紋次郎が小走りにやって来る。
「お待たせしました」
「お帰りなさいませ桐也様。それから初めまして、従僕の紋次郎と申します」
紋次郎は着物の裾をまくりあげ、袖をたすき掛けにしている。仕事の途中で呼ばれたので急いでそのまま来たという格好だった。
「タマ。温乃を風呂に入れて綺麗にしてやってくれ。長い間汚れたままにされていたみたいだ」
「あずきババが拭いてくれる」
「あずきババ? 世話人がいたのか?」
そこで桐也はふと思い出した。
あの村に入って山の奥に向かう老女がいたことを。その老女がどうにも気になり追いかけ、そしてあの祠を見つけたのだ。
桐也が祠に辿り着いた時には、温乃の世話が済み、村に戻っていたため出会わなかったのだろう。
「温乃様、お湯に入りましょうね。石鹸を使ってぴかぴかに磨きましょう。紋次郎」
タマの指示を聞いた紋次郎が温乃の横に片膝をつく。
しかし急に近付いたせいで驚かせたのだろう、温乃は身体を前に倒して桐也の胸にしがみ付く。たらいが傾き、中の水が大きく跳ねて、桐也も温乃も太ももまでびっしょりと濡れてしまった。
「どうした温乃? 怖いのか?」
温乃の手が桐也のシャツをぎゅっと掴む。
山から駅まで歩く時も早川のことを最初は嫌がっていたのだと思い出した。
「男が怖いか?」
聞くまでもないと思う。温乃が安治にされたことを思えば怖くないはずがない。きっと足首を折る以外にも何かされているのだろう。逃げるという意思を削ぐために。
「温乃……。そうだ紋次郎はな、相撲が上手いんだ」
「スモ?」
「相撲を、知らないか?」
桐也はなだめるように温乃の背中を優しく撫でて、それからゆっくりと、先ほどまで座っていたたらいの上に温乃を戻す。
「よし、紋次郎こい」
「承知!」
桐也は相撲を取るのに邪魔だとばかりにシャツとズボンを脱ぎ捨てる。ふんどし一枚の桐也は細身で無駄な肉はなく、全体的に引き締まっている。
タマが温乃の横で「まあまあ」と呆れた声を出していた。
どしっと四股を踏む紋次郎は桐也より身長は低いが、下半身ががっしりと逞しい。
桐也は腰が高いが、紋次郎の腰は低く構えには安定感がある。
桐也が「八卦よい」と合図する。
紋次郎が「残った残った」と言いながら、桐也の胸の下に入り腰を掴んで投げ飛ばした。
「まあ、お早い決着のことで」
「桐也様、大丈夫ですか?」
「いやあ、無理だ。身体に疲れが溜まり過ぎているらしい。これは参った。温乃見ていたかい?」
温乃は困ったように眉が寄っている。
そして震える指で紋次郎を差し、「安治」と言った。
「ああ、そうだった。汽車に乗る際に安治に投げ飛ばされたところをみていたな」
「なんと申しますか……、僕は更に嫌われたのではないでしょうか?」
「はははは、済まぬ紋次郎」
「笑って済まそうとしないでください」
「仕方ない今日の所は私がずっとついていよう。その内、早川が戻るだろう」
桐也は、おいでと優しく声を掛けて温乃を腕に抱える。
「さて、まずは風呂だな」
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