第9話
レンガ造りの東京駅は三階建てである。
桐也の腕に抱かれた温乃は大きな駅舎の外観を見て、あんぐりと口を開けていた。
「素晴らしいだろう」
「……」
田舎とは比べ物にならない人の数。静かな山にはない街の喧騒に温乃は放心していた。
木製の電柱やガス灯も珍しいのだろう。舗装されたレンガ道に温乃の視線はしばらく固定されていた。
白い着物の少女を抱えた、土汚れでぐったりとしている背広を着た青年が二人。そんな三人に気を止めることなく道を進む者もいれば、奇異な目でじろじろ見てきたり、くすくす笑われたりした。
人力車を呼んで桐也と温乃が乗る。
早川は所用があるといって、そこで別れた。
「これ、なに? きしゃと違う?」
未知への恐怖に温乃は肩が上がっているが、目は色々なものを追っているので興味もあるのだろうと思う。
「済まないが、ゆっくり走ってくれ」
「へい」
車夫は人好きのする顔で笑うと、頼んだ通りにゆっくりと走り出した。
桐也は温乃が怖がらないようにと背中に腕を回して細い肩を持つ。
「怖いかい?」
温乃は瞬き一回で答える。
「私の手を握るかい?」
肩に回した方ではなく、空いている右手を温乃の前に出すと、温乃は両手できゅっと握りしめた。
すっかり懐かれたようで、悪い気はしない。
車夫は小石等を器用に避けながら進むので、大きな揺れも少なく快適に乗ることができた。
礼を言って降りると、桐也は加藤邸の正面からではなく勝手口に向かった。
いきなり見ず知らずの少女を連れて正面玄関から入ることは憚られたのだ。それに汚い身なりのまま家の中を汚すこともできない。
「おーい、誰かいるか」
勝手口の扉を細く開ける。そこは台所であった。中に声を掛ければ、昼休みを取っていた女中たちが着物の裾を急いで揃えながら立ち上がる。
「あら桐也様。お帰りなさいませ。顔だけ出していかがなされました?」
女中頭のタマが扉に寄って、少ししか開いてない扉を全開にしようとするが、「待て」と桐也は素早く命じた。
「不都合がおありなのですね?」
「ああ」
「心得ました。ご用をお伺いいたします」
「済まないが、タマだけこちらに出てきて欲しい」
タマが振り返ると、他の女中たちは女中頭の目を見る。それだけで若い女中たちは休憩に戻り、何もなかったかのようにお喋りを再開した。
薄く開いた扉の隙間から外に出たタマは扉をぴたりと閉める。そして桐也の腕に抱えられた少女を見て目を丸くした。
「とうとう人攫いを?」
「莫迦なことを言うな」
「では隠し子をお迎えに?」
「かくっ!? 違うぞ! まだ結婚もしてない!」
タマも本気で言っていたわけではないようで、口を動かしている間も視線は桐也ではなく温乃に向いていた。
「あまり良い環境で育っていないことだけは分かりました。この子を助けたのですね?」
「そうだ」
「助けたからには、桐也様がきちんと責任を持たなければなりませんよ」
「分かっている」
「本当にお分かりですか?」
背の低いタマはずいと見上げて桐也に顔を寄せる。恐い顔をするタマにたじろいだ桐也は胸を後ろに引いた。
「この足首の痣は?」
「縄で繋がれていた。それも昨日今日の話ではなく、きっと随分前から。……神への生贄として祠に閉じ込められていたのだ。そのせいで歩くことができない」
「まあ、なんと……」
同情したのだろうタマは皺の刻まれた両手を口元に当てる。
「温乃、これはタマという」
温乃は桐也の肩をぎゅっと握りしめたままだった。
「温乃さんとおっしゃるのですね。わたしはタマでございます」
「表向きにはタマの娘ということにしてくれないか?」
「それは構いませんが。娘というより、孫でしょう?」
「どちらでもいいのだが」
「しかし温乃さんをわたしが抱えることは難しいですよ。男手がありませんとねぇ?」
「
「わたしの息子ですか? ではすぐに呼びましょう。あと、急いで湯を沸かしましょうねぇ」
小走りで戻って行ったタマを見送って、温乃が桐也を呼ぶ。
「キイヤ」
「どうした?」
「キイヤと、さよなア?」
見知らぬ土地に来たばかりで、タマや紋次郎と知らぬ名前が出てきたため心細いのだろう。
「いいや、ずっと一緒だ。約束したからな。だけど、温乃も私も身体を綺麗にしなければならないし、私にも仕事がある。短い時間だけ離れないといけないこともあるのだが、分かってくれるかい?」
温乃が嫌だというように桐也の肩にしがみ付く。
「温乃?」
「うん。……すぐに帰ってきてくエる?」
「ああ、もちろんだ」
温乃が顔を起こした。桐也の顔を見て頬の強張りをほどいたように見えた。
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