第8話

桐也と早川の背中に交代で乗せられた少女――温乃は自分に与えられたばかりの名前をずっと繰り返している。


「気に入ったか?」


 今はまた桐也の背中に預けられている温乃は、うんうん、と頷く。表情は変わらないが、喜んでいるように桐也には見えた。


「俺の名前は覚えているか?」


 一度、きょとんと瞳の動きを止めた温乃は薄く口を開く。


「やまがみ……、キイヤ」

「ああ、そうだ。次は、あの男の名は?」


 桐也を先導するように前を歩いていた紺色の背中に視線をやる。


「かくれんぼのトオル。キイヤはハヤカワって呼ぶ」

「そうだよ。早川とも呼ぶし、たまに透と呼ぶこともあるな」


 昔はずっと『透』と呼んでいた。それを懐かしむ。早川は昔から変わらず桐也のことを『桐也様』と呼んでいる。

 兄弟のように育ってきたが、二人の間には明確な隔たりがあった。桐也がどんなに近付いても、早川は一歩引いて、一線を引く。それを寂しいと感じたことは一度や二度ではない。

 肩を並べる日は永劫ないのかもしれない。それでも早川が桐也の隣に立ってくれたらどんなに嬉しいかと考えない日はない。


 風景に少しずつ民家が増えて行き、それから商家が見え、棒手振りが行き交う通りを抜ければこじんまりとした駅舎が見えてくる。


「何時の汽車だったか?」

「十時です。まだ時間がありますね」


 早川が懐中時計を確認して、それから首を巡らせる。


「あちらで握り飯を求めて参ります。桐也様はこちらでお待ちください」


 駅舎の中に設置された長椅子を早川が示した。

 桐也は長椅子に温乃を下ろしてから、自分もその隣に腰を下ろす。


 途中で休憩を挟みながら歩いていたが、女の子を一人背負って進むのはやはり骨が折れる。


「ここがテイト?」

「ん? ああ、違うよ。これから汽車に乗って帝都に向かうのさ」


 温乃は桐也の言葉を解せなかったのか、動きを止めてしまう。


「村から出たことは?」

「チョーオーのお家と、山神様のお家だけ」


 『チョーオー』が何を指しているか不明だが、村にないものは知らないのだろうと推測できる。


「これは知っているかい?」


 桐也は内ポケットから懐中時計を出した。これは早川と同じ品物である。

 蓋を開いて時間を確認すれば、時刻は九時半であった。その盤面を温乃に見せると、彼女は驚いたように口を半開きにして覗き込む。


「なに?」

「懐中時計という。時間を正確に教えてくれるものだよ」

「じかん?」

「もうすぐ未の刻になる」

「?」


 分からないという顔をする温乃を見て、桐也は教えることがたくさんありそうだと感じた。


 早川が腕に笹包みを抱えて戻ってくる。


「遅い朝食になりましたね」

「そういえば、昨晩も食べ損ねていたな」

「隣の茶屋が水を貸してくれるそうです。手と顔を洗ってもいいと」

「それは助かる。温乃も行こう」


 桐也は温乃を横抱きにして駅舎を出た。すぐ隣にある茶屋の前では、ふくよかな女性が桶に水を張っている。


「ああ、お兄さんたち。どうぞ使いな! 手ぬぐいもいるかい?」

「それは有難い。だが洗って返せそうにないので、買い取らせていただいてもよろしいか?」

「いやだよぅ。遠慮なんてするもんじゃないよ。どんどん使いな!」


 女性はからりと笑うので、遠慮なく手ぬぐいを使わせてもらうことにした。

 手と顔を洗うと桶の水が茶色く汚れる。見かねた女性が一度水を換えてくれた。

 綺麗な水に手ぬぐいを浸して、それで今度は温乃の顔を優しく拭き、手も、指の間まで綺麗にしてやった。

 足も洗いたいが、ここでは遠慮しておく。


「まだ時間があるならお茶でも飲んで行きな。そのおにぎりもここで食べていいから」

「何から何までありがとうございます」


 店先にある長椅子で待っていると、熱い緑茶が運ばれて来た。一気に飲み干したいほど喉が乾いていたが、湯呑を持つ手が、少しばかり冷ましたほうがいいと言っている。 


「温乃、熱いけど飲めるかい?」


 桐也はすぐに渡さず、湯呑の中身に向けて、ふーっと細い息を吐きかける。白い湯気が大きく揺れた。


「ふー、する」


 湯気の揺れに興味を抱いたのか、桐也が持つ湯呑に向かって温乃は「ふー」とだけ言う。


「唇をすぼめて、細く長く息を吐いてみるといいよ」


 桐也が教えると、温乃は桐也の口元を見て真似をしようとするが、唇はまだ自在に動かせないようだった。


「少しずつ練習しよう。温乃が知らないことがもっとたくさんありそうだ」

「うん、する」


 握り飯を食べながら、時間をかけてお茶を飲み終わる頃には汽車の出発時間が迫っていた。


「ご馳走さまでした」


 早川がお金を多めに包んで茶屋の女性に渡すのを見る。


「世話になりました。次は団子もいただきにきますね」

「また来てくれるん? 美味しい団子作って待っとるけぇね。元気でね」

「はい。ありがとうございました」


 桐也が深く頭を下げる横で、温乃も礼を言う。


「あイアと」

「お嬢ちゃんも元気でね。またね」


 ぺこりと頭を下げた温乃を抱えると、温乃はすぐに首を反対に向けた。


「温乃?」

「きた」

「何が?」


 温乃の視線の先には左右に首を巡らし、辺りを見回している大男がいる。

 その男には見覚えがあった。


 祠の前で、桐也を投げたあの男だ。きっと温乃きようさまを取り戻すべく追いかけてきたのだろう。


「あれは、あの村の長老の孫である安治あんじ殿ですよ。見つからない内に早く汽車に!」

 

 早川が急かす。

 しかし桐也の背中に「待てっ!!」と大声が張り付いた。


「急げ」


 汽笛が鳴る。

 駅舎に駆け込み、停車している汽車に前を走っていた早川が先に乗りこむ。乗った早川が振り返って手を伸ばした。


 後ろからはどどど、という駆ける足音が迫っている。


「きようさまを返せっ! この野郎!!」


 桐也は早川の手に温乃を託す。

 車輪がゆっくりと動き出したのを見ながら、桐也の視界は反転した。


 昨晩と同様、安治に投げ飛ばされたのだ。

 しかし桐也とて、やられっぱなしではいかない。すぐさま男の足にしがみつくと、安治は体勢を崩して、頭から地面に転んだ。


「離せっ、きようさまを返せっ!」

「返さぬ! あの子は神への生贄ではない。人の子は人の子として暮らすべきだ」

「桐也様っ! 早く!」


 早川の叫び声が遠くなっていく。

 上体を起こそうとする安治の背中に馬乗りになった桐也は、茶屋で使った手ぬぐいの両端を持って、それを安治の首に掛けた。

 そして躊躇することなくひと息に締め上げる。


 「うっ――」


 何が起きたのか一瞬では理解できない安治の背から立ち上がった桐也は背中を強く踏みつけて、そのまま飛ぶように汽車の最後尾にしがみ付く。


 車輪は一回転するごとに加速する。

 一拍遅れて立ち上がった安治がどれだけ走っても、汽車に追い付くことは叶わない。


「返せぇーー。この盗人がっーー」


 安治の怒声は汽車の走行音に溶けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る