2、供物乙女は逃げたい

第7話

桐也は泥まみれだった。

 それは早川も少女も同じ。三人とも命があるだけ良かった。


 山の南西側へ下山し、麓に辿り着いた頃には、空がしらみ始めていた。

 暗雲は立ち去っている。麓はまるで雷雨などなかったかのように、来た時と様相を変えていない。


 ただ――。桐也がそう思いながら東側を仰ぐと、そちらの山肌が削れている。


「ここからでは見えませんが、あの村は流されたかもしれませんね」

「そうだろうな」

「行ってみますか?」


 早川の言葉に、桐也は少女を見る。


「行ってみるかい?」


 少女は首を横に傾ける。

 下山中も、少女に何かを質問しても少女は首を傾げるだけであった。


「村の様子を見に行くかい?」


 質問を少し変えると、桐也の肩を掴んでいた少女の手の力がぎゅっと強くなった。


「村に戻るのは嫌?」


 今度は小さく頷かれる。


「それなら、このまま東海道に出よう。駅に向かって一緒に帝都に行こうか」

「テイト?」

「私の家があるところだよ」


 そうと決まれば出発だ。桐也は少女を背負い直そうとするが、腕に疲労が蓄積していて、少女がずり落ちる。


「すまない、大丈夫か?」

「代わりましょう」


 早川が背中を向けてしゃがむ。


「すまない。早川と交代してもいいだろうか?」


 桐也がそう聞くと、地面にぺたりと座る少女は首を横に振って桐也の背中にしがみついた。


「あの男は嫌か?」


 今度はこくこくと首を縦に振る。

 しかし桐也も腕が限界に達していた。早川と交代できるならそれに越したことはない。


「ああ、そうだ」


 桐也は腰を落として少女の横に腰を下ろす。少女の手は不安そうに桐也のシャツを掴んだままだった。


「少し休憩だ」


 そう聞いて少しだけ安心できたのだろう少女の手から力が抜ける。

 桐也は大きく呼吸をしながら両手を腕に上げて大きく伸びをし、肩や首を回して、腕を揉んだ。


 空が明るくなってきたお陰で少女の顔がよく見えるようになった。

 改めて見た少女の顔は痩せこけ、顔色は良くない。あの縄が繋がれていた足首は青黒く変色している。

 このひと晩でどうこうというものではないことが桐也にも早川にも一目瞭然だった。


「かくれんぼのトオルを覚えているかい?」


 桐也は柔らかい声を出して隣にそう訊いてみる。

 少女はコクンと頷く。かくれんぼの話はちゃんと聞いてくれていたのだ。


「何の話しですか?」


 自分だけ除け者にされているような表情をする早川に向かって桐也は人差し指を向けた。


「かくれんぼのトオルは、この早川だ。これの名前は早川透」

「ハヤカワトール?」


 薄く開けたくちびるの隙間から相棒の名前が漏れてくる。

 桐也はにっかりと笑った。


「悪い奴じゃない。俺の大事な相棒だ。でも君が早川の背が嫌なら、やっぱり私の背に乗ろう」

「山神様、疲れてる?」


 少女の視線が桐也の腕に向かう。

 桐也は無意識に腕の疲れをほぐしていたのだ。


「いや、その……、疲れていないわけではないが、交代できるとありがたい。それから、その……、山神様というのはやめてくれないか?」


「山神様、じゃない?」

「ああ。私は加藤桐也という」


「カトー?」

「ああ。でも、桐也でいい」

「キーヤ?」


 桐也はもう一度、ゆっくり伝える。


「き、り、や」

「キ、イ、ヤ」


 少女は『り』の発音ができないのかもしれないと思った。


「『瑠璃色』と言えるかい?」

「ルイイオ」


 それを聞いて、少女の舌の動きが鈍いことを悟る。だが『ラ行』全てが言えないわけではなさそうだ。『る』は言えるらしい。


 ――そうだ、『トオ』は言えていた。


 なんとなく腹が立つ。

 だが、あのような祠に一人閉じ込められ、会話もすることがなければ口など動かす機会もなかったのだろうと、桐也はまた怒りが沸いてきた。


「君は……、きようさまと呼ばれていたが、名前は?」

「あたしは……きようさま」

「違う。本当の名前があるだろう?」

「本当の? ……おまえ? おい?」

「いや、それは……」


 桐也は頭を抱えたくなった。


 少女はまっすぐに桐也の瞳を見つめている。

 桐也の頭にふっと文字が浮かんだ。


「――温乃はるの……」


 さわ、と頬を撫でる温かい風が吹く。


「君の名前だよ。どうだろうか? ――温乃」

「ハルノ?」


 よく分からない、というように首を傾げる少女に向かって桐也は微笑んでみせる。


来山に住む君の、まっすぐな瞳がとても温かかったから、という理由なんだけどね。どうだろうか? 気に入らなかったかな?」


 早川も彼には珍しく、優しく笑った。


「良いではありませんか。温乃様」

「あたしの名前、ハルノ?」


 少女は確かめるように名前を口にする。


「きようさまじゃない?」

「そうだよ。君は温乃だ」

「ハルノ!」


 彼女は味わうように名前を口の中で何度も転がす。


「温乃おいで。一緒に帝都へ行こう!」


 差し出した桐也の手に、少女――温乃は小さな手を重ねた。

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