第6話
少女の瞳から光が失われて何度季節が巡っただろう。
少女というよりも女性と呼ぶ年齢に差し掛かっているはずだが、女性としての発育など皆無である。
まるで時を止めたかのように――。
あずきババは体調をよく崩すようになった。少女の作る薬では良くならないようだった。
あずきババがお勤めに立てない日は、代わりに若奥様が山神様のお供え物を運ぶようになり、昨年からは娘の
若奥様には山神様への信仰心があったのだが、この加代には信仰心が希薄であった。加代がお供えものを運ぶようになってからは、あずき粥の上に砂が掛けられるようになっていた。
少女への嫌がらせだ。
それでも少女は残さずいただく。
いつか山神様に食べていただくために。山神さまとともにあるために。
生きる希望などない少女は、自分が死ぬ時を待ち望んでいる。
少女の望みはただひとえに、山神様に食べられること。
『山神様は優しくて温かい方らしいよ』
少女の記憶から白兎の声が聞こえる。
どんな神様か知っているのかとそんな質問をすると白兎はそう返したのだ。
にこやかに即答した白兎に、どうして知っているのか疑問ではあったが、それが優しい嘘なのだと少女は理解することができた。
怖くて恐ろしい神様だと思っているよりも、優しくて温かい方を待つ方がどれほど安心して過ごすことができるだろうか。
白兎は常に少女に寄り添ってくれていた。それは心身ともに。
温もりがなくなって久しい膝に手を置く。額を撫でると気持ち良さそうに目をすがめていた。背中を撫でるとすぐに寝息を立てていた。
「うさぎ……」
作業台の下は未だに穴が空いている。そちらを見やればゆらり、ふわり、と白い花が覗き、顔を出す。それは蝶だった。
ここ数日、よく迷い込んでくるようになった蝶は翅を休めるために少女の膝にのる。
初めて蝶が訪れた日には、指で摘まみ上げてしまった。だがそれをされるのは嫌なことだと分かって、少女は二度と蝶に手を出さない。膝に乗る蝶を静かに見つめる。
ピク、と翅が揺れて、蝶は舞った。明かり取りの小さな窓に寄り、そこから出ていく。
入れ替わるようにして祠の外で音がする。閂が外される音を聞いて少女の肩が一瞬強張る。
扉の方へ顔を向ければあずきババが盆を持っていた。
今日は顔色もよく、足の動きもしっかりとしている。調子が良さそうだと、少女は安心した。加代が来るのは恐ろしいのだ。
慣れてしまったといっても、粥に砂を入れられるのは嫌だし、叩かれるのも蹴られるのも痛い。
あずきババは山神様のご神体の前に粥を供え、いつも通りに手を合わせた。膝を押さえながらゆっくりと立ち上がる。背中は年々曲がっていて、歩くことにも大変な労力を使っているのだろうと思う。
お勤めを加代に代わってしまえばいいのに、と思う一方で、完全に加代に代わって欲しくないとも思う。
あずきババは扉の手前で立ち止まるとゆっくり向きを変えて少女の前に足を出した。
どうしたのだろうと考えていると、あずきババは懐に手を入れてそこから紫色の粒を出す。
それを少女の横に置いた。
五粒あるうちの一粒がころんと転がる。
少女はあずきババの顔を見ながら、ご神体を指差した。
――山神様のごはん?
少女の思いはきっとあずきババに通じたのだろう。あずきババは首を横に振って、しわくちゃの人差し指を少女に向ける。
――あたし?
あずきババは表情を緩めてコクン、コクンと首をゆっくり縦に二回下ろして肯定した。
それからあずきババの口がハクハクと動く。そして礼をするように頭を大きく下げた。
その行動の意味が少女には一つも理解できなかった。あずきババが祠を出るまで少女は口を半開きにしたまま床に転がる紫の粒――山ぶどうを見つめていた。
すぐに雨が降る前の匂いが漂い始めた。
あずきババは雨が降り出す前に村へ帰り着けるだろうか、あの白い蝶はどこかで雨宿りできるだろうかと心配になる。
背中に寒さを感じて少女は両腕を強く抱えた。
降り出した雨はすぐに重たくなり、祠の屋根を穿つように空から落ちてくる。
雷鳴を聞くと否が応でも記憶の蓋が開く。
あの日の惨状を思い出して涙が止めどなく溢れた。肩が震えて嗚咽が漏れる。
あまりの心細さに、少女は山神様のご神体を胸に抱いた。ただの木塊といってもいいだろうそれに心の隙間を埋める効力があるのか分からないが、何かに縋らなければ心身ともに千切れてしまいそうな少女には、それがただの石ころでも縋らないわけにはいかなかったのだ。
今晩はもう閂が外さることはないはずだが、それは急に開いたので、驚いた少女の内臓が飛び上がる。
「失礼。雨が降り出したもので、どうかひととき雨宿りをさせていただけないでしょうか? 雨がやめばすぐに出ますので」
あずきババは喋らないので、あずきババではない。若奥様でも加代でもない。
聞いたことのない声に少女は固まった。
「大丈夫ですよ」
板壁の隙間から光が差し、人の形が白く浮かぶ。白兎が人間になって戻ってきたのかと思った。
そう思ってしまったのは、男の声が白兎のように柔らかいものだったからかもしれない。
驚かせないようにと、配慮している気配が伝わる。
その男よりも、ゴロゴロと空が激しく泣く声の方が少女は怖かった。
「っ……」
「失礼」
男は少女の横に膝をついて、身体に腕をまわした。
少女の寒かった背中に体温がうつる。
「大丈夫ですよ。怖くない、怖くない。そうだ、楽しい話しでもしましょうか」
足が痛いと少女が白兎に伝えた時の、その白兎の態度に似ている気がした。
あの時の白兎は、君の足が痛いことなんて最初から知ってたよ、と何でもないふうに少女の足首に顎を乗せて、痛い足首を温めてくれたのだ。
だからあの時、足首の痛みはほんの少しだけ和らいだのだ。
「ああ、そうだ。子どもの時にかくれんぼをして遊んでいたのですけどね」
男は過去の思い出を大切そうに話すので、少女もそれに耳を傾けた。
この男には『トオル』という友人がいたのだと分かる。少女にも『うさぎ』という友人がいたが、人と話してはいけない少女がそれを伝えることはできない。
この人が動物であれば話し掛けても良かったのだろう。だが動物がこの祠に入ったことを村人が知ればきっと制裁が与えられる。
だから動物ではなく人で良かったと、少女はそう思った。
「それにしても酷い雨だ。風もだんだんと強くなっている……。野分か……?」
強いと形容するのが正しいのかどうかも分からない風が祠を揺らす。
白い蝶はどうしているだろう。吹き飛ばされてなければいいが。
「君の……、家族は?」
家族という言葉は少女には無関係のもの。首を横に振ってみれば伝わるだろうかと、それをやってみる。
どうやら伝わったようだが、どうしてか男は謝った。
その時、大きな音とともに祠の扉が外側に向いて開き、そして吹き飛んだ。
口を開いた祠は雨を吸い込む。
「おおっと……、これはいけない。少し待っていてくれるかい?」
男が外に行こうとするので、まだ行かないで欲しいと少女は男のシャツを掴んだ。
「大丈夫。ちょっと見てくるだけだから。ね?」
肩に触れた手は温かく、優しい。
男は扉があった場所から外を覗き、髪の毛から滴らせた雨を床板に染み込ませている。いや、すでに入口付近の床はびしょ濡れになっていた。
――山神様は優しくて温かい方らしいよ。
白兎の声が聞こえる。
刹那、まばゆい光と地を割く轟音が祠を襲う。
男が光を背負い立つ。
ああ、ここにいらっしゃったのだ――とそう思った少女は床を這って男の足に飛びついた。
「山神様っ!」
「やま、がみ? いや、……私は――」
困惑している男に否定されたくなくて、少女は必死に懇願する。
「山神様っ」
「いや、だから」
「山神様、山神様! 山神様――」
いつぶりに喉を震わせただろうか。自分の声が山神様に届くように声を張り上げた。生まれて初めての叫びに喉が驚いて、一度だけ軽くえずいた。
「落ち着いて、大丈夫だから。ね?」
分かってほしいのに、分かってもらえていない苛立ちを抱えながら、少女は床に額を垂れた。
「山神様! あたしを食べて!」
「食べる?」
「山神様! 早くっ! 早く食べてっ!!」
村人が来る前に、早く食べられてしまいたい。
雷の日には、もしかしたら若奥様がくるかもしれない。
若奥様にこの男が畜生だと認識されたらお終いなのだ。
少女がどれだけ、この人が山神様だと訴えても聞き入れてはもらえないのだから。
その前に、早く――と、少女は願う。
「早く食べて……早くあたしを殺して!!」
「殺さないし、食べない。落ち着いて、ね? 落ち着いて――」
ドン、と強く響く音に少女の視線が山神様から横に反れる。
「そうじゃ! 落ち着くのじゃ! こやつはきようさまを誑かす狐狸の類。決して山神様などにはあらず。騙されてはいかん!」
そこには長老の息子が立っていた。屈強な男で、これに叩かれるのが一番痛いという記憶が蘇った少女の肩が強張る。
「桐也様?」
「早川か?」
「桐也様っ。ご無事で!」
大きな男と比べれば細身の男が横から抜けようとする。
「祠に入るでない。お前もだ! 穢れた身で結界内に入り、大事な結界を破りおったなっ!! 早くきようさまから離れて外に出ろっ!」
長老の息子が唾を飛ばしながらまくしたてる。
「いや、だが、この子は何なのだ?」
「よそものに話す必要はない」
「きようさまとは? 山神とは何だ?」
「教える必要はない。それより早く出ろ! 山神様がお怒りじゃ!」
違う、と少女は言いたいのに声は出ない。男から受けた折檻の記憶が声を失わせる。
山神様はこの人なのだから、中に居てもいいのに――という言葉は届かない。
山神様だと気付くことのないまま、長老の息子は山神様の腕を引っぱって、祠の外に投げてしまった。
山神様が視界から消えて、さっと寒さが押し寄せる。
「山神様、どうかどうかお怒りをお鎮めくだせえ」
長老の息子は山神様に背中を向けて、祠に向かって手を合わせた。そして泥の上に頭を垂れる。
山の泣く声が少女には聞こえた。
長老の息子へは天罰が下るかもしれない。
山神様を愚弄した長老の息子には、天罰が――。
雷神の悲鳴が山を割る。
木々が山神様にひれ伏していく。
山神様が少女の前に膝をつく。温かくて優しい手で少女の冷たい身体が覆われる。
「大丈夫だ。ここから出よう」
「あたしを食べる?」
「いや、それは……」
「桐也様、急ぎましょう」
「ここは危ない。私と一緒に逃げてくれるかい?」
逃げるという意味が分からず、首を横に傾げた。
「……山神様と一緒?」
山神様に食べられることが少女の願い。願いを叶えるためには山神様の側から離れてはならない。
「あたしは『きようさま』だから、山神様と一緒に――」
「ああ、一緒だ!」
少女はその言葉が嬉しかった。
足に巻きついた縄を示せば、山神様は躊躇うこともなく縄を切った。
そして立てないことを伝えた少女を軽々と背中にのせて、その牢獄を出た。
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