第5話

朝と夕に一度ずつ祠の扉が開く。

 一人の老女が山神様へのお供えものを運んで来るのだ。


 運ばれて来るのは、毎朝、毎夕、あずき粥と水。それから時々果物がある。運ばれる間に粥はすっかり冷めている。


 あずき粥を運ぶからなのか、他に理由があるのか分からないが、この老女は村人に「あずきババ」と呼ばれていた。先代のきようさまの時分から、あずきババがこの役目を担っている。


 少女は「人と話すな」と厳命されているため、あずきババに話し掛けることはできない。

 あずきババはあずき粥をのせた盆を奥にあるご神体の前に供えて、昨夕に供えた空の器を回収する。そして静かに出て行った。


 扉の閉まる音と、閂が下ろされる音が大きく響く。

 少女は詰めていた息を吐き出した。喋るなと言われているが、息を吸うなとは言われていない。それでも、どうしてか誰かが近くにいると声を閉ざすために息を止めてしまう。


 村にいた頃は、一声でも発そうものならば誰彼構わず叩かれたものだ。その内に少女は人が近くに寄ると息を詰めるようになった。そして喉を震わせることを忘れた。


 少女は両手と膝を使って移動する。ご神体の前に行き、丁寧に手を合わせた。そうするように教えられたわけではないが、そうしなければならない気がしたのだ。


 ご神体は木彫りであるが、仏像のような人型ではない。達磨のように上下があるのが分かるだけで、上が頭だと言われればそうなのだと思う。下に至っては凸凹と歪で、凸は三つある。三つ足なのだろうかと少女は疑問に思ったが、山神様のことを何も知らないため、そういうものなのだろうと結論づけ、それ以上ご神体について疑問を抱くことはしなかった。


 木匙で粥を掬い、口に運ぶ。冷めた粥はちっとも美味しくないだろう。しかし少女は嫌な顔ひとつせずに完食する。

 それもそのはず。

 ここに入れられる前はもっと酷かったのだ。少女に与えられた食事は残飯だった。しかも食事が残らなければ少女に与えられるものはないとばかりに、抜かれることも日常茶飯事であった。


 ここでは必ず朝と夕に、新しく用意された「山神様」に供えた食事が摂れるのだ。

 最初こそ、自分が食べてもいいものではないと手を付けなかったのだが、高熱で寝込み食事の摂れない少女の頭元に、あずきババが供えた後の粥を置いた。それは「きようさま」が食べてもいいものだと教えるには十分な行為だった。


「起きてる?」


 作業台の下に白い毛が覗いている。


「おはよう」

「……はよ」


 白兎と同じ朝の言葉を返すが、声は全く響いていない。しかし白兎もそれを気にしてはいない様子で少女の隣にちょこんと座る。


「今日は粥だけ? 木の実を取って来たよ」


 白兎の目と同じ赤色の実が、コロリン、コロリンと白い毛の中から出てくる。どうやって運んでいるのか疑問をぶつけると、白兎は笑うだけで答えを与えることはなかった。 


「食べなよ?」


 少女はコクンと頷いて木の実を摘まむ。ぎゅっと力を入れれば潰れてしまいそうな実を優しく口の中で転がす。

 噛んでしまってはもったいない気がした。


「美味しいかい?」


 少女はまた首を縦に下ろす。


「美味しい時くらい笑えばいいのに。きっと可愛いのにさ」


 笑う、ということがよく分からない少女は小首を傾げた。

 白兎が「こういう表情をするんだよ」といって笑ってみせる。白兎はきっと笑ったのだろう。けれど少女には白兎の表情がどう変わったのかついぞ分からなかった。


 ぎぎ、と鈍い音でもしそうな口端を横に伸ばしてみると、口の中にあった木の実が潰れてしまう。

 酸っぱい味が広がり、眉根がわずかに寄った。それは注視していなければ分からないほど、ほんの少しの表情の変化だった。

 もともと表情の変化に乏しいのだ。


「今日はこのあと雨が降るかもね」


 白兎の鼻がひくひく動くのを見て、少女も鼻で匂いを嗅ぐ。


「雨が降る前の独特の匂いだよ。前のきようさまはこの匂いが好きだったんだ」


 白兎はたまに、前のきようさまの話をしてくれる。前のきようさまはここでどう過ごしていたとか、そういうことを少女に教えてくれた。

 白兎の教授のおかげで少女がここでの生活に困ることはなかった。




 薬草の扱い方も白兎が教えてくれた。


「なんだって今日はこんなに多いんだよ」


 あずきババが朝のお供えとともに持ってきたのは、あずき粥と、カゴいっぱいの薬草だった。


「うすいはっぱと、ぎざぎざ」


 白兎と三年も過ごせば会話が成立するようになる。


「咳止めだね」

「あずきババ、けほけほ」


 少女はあずきババが来た時の様子を思い出した。少女は『けほけほ』と表現したが、あずきババは肺が揺れるような酷い咳をしていた。

 白兎がその様子を見ていたならば、よくこの祠まで歩いて来れたものだと感心しただろう。


「悪い病が入ってきたのか?」


 カゴにあるのは薄緑色の丸みのある葉と、それから細長く周囲がのこぎり歯のようになっている濃緑色の葉の二種類。

 それを作業台にある薬研ですり潰す。


 丁寧にすり潰す。

 それは朝から晩まで作業に没頭できる『きようさま』の大事なお勤め。


 少女は雨が降り始めたことにも気付かず、作業に集中した。日の光が差さない祠内は薄暗い。

 カゴの底が見えて、薬研にある手が止まった。

 少女は次に、すり潰された緑をさらしで包んで絞る。用意されていた壺に緑の液体を入れ、さらしはザルの上に開いて中身を乾燥させる。


 それを飽きることなく繰り返した。

 白兎は柱の横で眠っている。


 雨の音が強くなった。他のどんな音も聞こえないくらいの雨音。

 遠くで雷が鳴る。明かり取りのために申し訳程度にある小さな窓が光った。怒りの声が祠を揺らして、少女の肩が震える。


 刹那、扉が開く。


 閂の音も聞こえなかった。しかもそこに立っていたのはあずきババではない。長老の家で「若奥様」と呼ばれ、誰よりも多く少女の頬を叩いた女性が仁王立ちしている。


「獣がいるじゃないかっ!?」


 顔を赤や青へと忙しく変えた若奥様は持っていたお盆を手から滑らせた。

 がしゃんという音が小さく聞こえたのは雷鳴と重なったせいだろう。


 いつの間に目を覚ましていたのか、白兎がマズイといった顔で祠を飛び出す。


「三郎、その畜生を捕まえなっ!」


 祠の外へと向けて若奥様が叫ぶと、外から返事のような声がかすかに聞こえた。

 少女は白兎を助けたい一心で床を這うが、少女の身は扉より外には指一つ出ない。


「んんんー!」


 足に繋がれた縄を今日始めて忌々しいと感じた。


「んんんー!!」


 縄を両手で引っ張るが千切れもしなければ緩みもしない。

 無謀なことをしている少女の頬に痛みがはしる。


 この三年、一度も痛みを感じることのなかった頬がじんわりと痛みだす。叩かれたのだと理解するまでに数秒を要した。


 見上げると、般若の顔をした女がもう一度腕を大きく振る。少女の視界に若奥様が消えた。否、少女の身体が後ろにひっくり返ったのだ。


「お前、きようさまのお勤めを何だと心得ている!! 神聖な祠に畜生など入れて! 汚れてっ! だから村に病がっ! ああっ!!」


 激昂した女の怒りが少女の身体を打つ。般若の足が少女の背を蹴った。


 痛いと、その呻き声さえ我慢するように少女は両手で口を押さえ、痛みが続く頬を濡らす。

 何度蹴られただろう。いや、何度蹴られても構わない。それよりも気になるのは、


 ――うさぎ。

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