1、供物乙女は食べられたい
第4話
「泣いてるの?」
少女は涙をそのままにして声の主を探す。それは作業台の下にある小さな穴から顔を覗かせて、にょきっと器用に身体をくねらせて祠内に来訪してきた。それは正規の入口ではないから、来訪ではなく正しくは侵入かもしれない。だが少女にはそんなことはどうでも良かった。
幼女というには少し大きく、少女というには幼い、そんな少女の頬に涙の跡がはっきりと見える。
「あれ? 喋れない?」
少女は首を横に振る。本当は喋ることができる。
「人と話すな、とでも言われたんでしょ?」
少女の瞳がころんと丸くなる。どうして知ってるのかと目が問うている。
「はは、やっぱりそうか。でも残念」
何が残念なのだろうと少女は思った。いや、違う。残念なことしかここには存在していない。幸せなことなどひとつとして落ちていないのだ。
「残念だけどね、おいらは人じゃないんだ」
何に見える? ーーとそれは少女に訊く。
少女は声に出さずに口を動かした。
――うさぎ。
「そうだよ、おいらはうさぎだ。人じゃない獣だよ。君は獣と話すことを禁じられたの?」
少女は首を横に振る。禁じられたのは「人」と話すこと。
目の前にある長い白耳がピンと立つ。桃色にも見える赤い目が喜んだように細められた。
それは誰に向けられたこともない優しい眼差しだった。暗闇に沈みそうになっていた少女の心を救い上げるには十分な温かさがその目には確かに宿っていたのだ。
「た、……たたかない?」
そっと漏れる吐息のようなささやきは、獣の聴覚だからこそ聞き取れる声量だった。
「たたかないよ」
どこを、と問うこともなく小さな獣に即答される。
「それにこの手じゃ、君の頬を叩けやしないよ」
白い前足がトントンと床を打つ。
「うさぎ?」
「なあに」
のんびりとした口調で答えた白兎は、次に欠伸をもらす。そして少女の足元で丸くなった。
「うさぎ」
「うん。一緒にお昼寝でもするかい?」
「あし、いたい」
「そうだね」
君の足が痛いことなんて最初から知ってたよ、と白兎は少女の足首に顎を乗せる。
「いたいよ」
「仕方ない。君は『きようさま』だから」
白兎にそう言われてしまえば、少女はそうだねと頷くしかない。
両方の足首にきつく巻かれた縄は、柱に括り付けられている。縄には少しばかり長さがあり、この部屋の中でなら自由に動くことが出来る。自由に動くことはできるが少女は立ち上がることはできない。歩くこともできない。できないようにされて、ここに繋がれたのだ。
だから足が痛い。
痛くて少女はまた涙を流す。初日は高熱が出ていた。誰も看病などしてくれない。誰もいないこの部屋の作業台には薬草の入った薬箱とすり鉢と湯呑があるだけ。
あと、死臭がわずかに残っている。
少女がここに来る前にここにいた先代の『きようさま』の死臭だ。
先代のきようさまは山神様に食べてもらえたのだ。
「はやく、あたしも、たべられたい」
「そうだね」
白兎の赤い目は閉じている。もしかしたら微睡みの中にいるのかもしれない、そんな適当な相槌だった。
けれど、白兎の口ははっきりと開く。
「世の中には楽しいこと幸せなことがたくさん溢れているというのに、それでも世の中には生きていることのほうが苦痛なこともあるんだ」
世の中全てを見てきたような口調でそういって、白兎は口を閉じた。白いふわふわの胸が規則正しく上下する。
少女をここに押し込めた村人は楽しいことや嬉しいことをたくさん知っているのだ、ということを少女は知っている。だが少女だけが知らない。
――きようさまの幸福は、山神様に食べられること。それのみ。
少女の頭の中にこだまする長老の声。栄誉なことじゃ、と嗄れた声で笑っていた。少女が幸福を享受できる唯一こそが、
――山神様に食べられること。
「あたしも、しあわせがほしい。やまがみさまにたべられたいな」
すうすう、と小さな寝息が聞こえる。白兎の顎が乗った右の足首が温かい。今だけは痛くないように感じた。それに少しだけ安心できた少女は板間に身体を横たえる。
ひとりきりの少女が白兎と出会ったのは、祠に入って三日目のことだった。
それは確かに少女にとっての幸運だった。
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