第2話

渋る早川の背を押し、早川が男に付いていくのを見送って、桐也は老婆の後を追うように闇の中へ向かった。


 腰の曲がった老婆の歩みなど早くはない。すぐに追いつくだろうと思っていた桐也だが、日の落ちた山中ではなかなかその姿を捉えることは難しい。


「どちらに行ったのか?」


 深い森の中で桐也は足を止めた。

 振り返る。

 自分が下から来たのか、右から来たのか、左から来たのか、もう全く分からなくなってしまった。


 懐中時計の盤面は目をしっかりと凝らさなければ見えはしない。


「はあ」


 途方に暮れて、大きく息を吐き出した。

 その時、ガサガサと葉擦れの音に驚き、桐也の鼓動が跳ねた。


「なんだ、風か!? ……はああ」


 頭上にある木々の葉擦れは奇妙な笑い声に聞こえる。黒に染まりつつある藍空の下で、うっすらと見える木のウロは大きく開けた口のようにも見える。風に揺れる枝のせいだろう、ウロを持つ木が今にも動き出しそうに感じて肩が強張る。

 汗が冷えて肌寒い。薄気味の悪さが余計に身体を震わせる。


「……ん?」


 桐也の視線に何か白っぽいものがぼんやりと見えた気がした。

 それに惹かれるように桐也は進む。しかし進むほどに風が強くなる。それでも桐也は足を前に動かした。

 塵芥が目に入る。顔の前に腕を翳しながら桐也は進む。

 やがて白いものが確かに見えるようになった。

 白いものは、紙垂しでであった。紙垂がいくつも浮いている。風に吹かれ、飛んで行きそうだが、きちんとそこにある。

 紙垂の真下に来てはじめて、桐也は紙垂が浮いていたわけではないことが分かった。木と木を繋いだ縄から垂れていただけである。


「しめ縄か」


 風がやんだ。

 桐也の足はしめ縄を越えていた。しめ縄の外は未だ風が吹いている。

 桐也の頬に雫がぽつりと落ちた。


「雨、か?」


 桐也は手の平で髪の毛を前から後ろに流すと、目の前にある物を凝視する。


「小屋? いやこれは――」


 そこにあるのは、祠であった。

 


「神でも祀ってあるのか? そういえば、先程あの男性が『きようさま』と言っていたな。関係があるのか?」


 桐也が小屋かと思ったのは、それが中に数人入れそうな大きさだったからである。

 扉もある。外から閂がしてあるが、錠はない。


 雨はどんどん勢いを増してくる。ゴロゴロと空を割る音が耳に届いた。

 早川は心配しているかもしれないが、雷の近付いてくる空の下を歩くよりは良いだろう。


「神様。雨が止むまでどうか雨宿りをさせてください」


 桐也は両手を合わせて拝むと、閂を引いて扉を開けた。


 失礼します、と頭を下げながら入った桐也は中に人の気配があることに気付く。先客か、と考えながら桐也は気配を探った。

 この時の桐也に、中に人がいてどうして外の閂が掛けられるのかという疑問は浮かばなかった。

 

 中央には柱があるようだ。

 桐也から見て左の奥で衣擦れがする。その衣擦れに向かって桐也は声を掛ける。


「失礼。雨が降り出したもので、どうかひととき雨宿りをさせていただけないでしょうか? 雨がやめばすぐに出ますので」


 相手が男か女かも分からないが、桐也はゆっくりと丁寧に願い出た。しかし返答はない。

 屋根を打つ雨の音だけが大きく響いている。

 

「……っ、……! ……っ」


 左奥から震えるか細い、声にならない声が聞こえた桐也は音の主を探る。

 雷の音が響く度に、悲鳴を抑えるような小さな音を聞いた桐也は、いても立ってもいられず側に寄った。


「大丈夫ですよ」

 稲光が板壁の隙間から差し、白色が浮かぶ。悲鳴の主は白い着物を纏っていた。


「っ……」

「失礼」


 声にならない悲鳴を聞いて、桐也はその身体を抱き締める。

 存外、華奢な身体は桐也の腕の中にすっぽりとおさまった。幼い子どものように感じる。


「大丈夫ですよ。怖くない、怖くない。そうだ、楽しい話しでもしましょうか」


 小刻みに震える小さな肩に、桐也は優しく囁きながら、楽しい話しは何があっただろうかと頭をひねる。


「ああ、そうだ。子どもの時にかくれんぼをして遊んでいたのですけどね、私がオニで、遊び相手のトオルという奴が隠れて。私は一生懸命探すんですよ。でも全く見つからない。降参だから出てきてくれ、と頼んでも出て来てくれないのです」


 桐也は細い肩の震えがやわらいでいることに気付いた。話しに耳を傾けてくれているのも分かる。


「使用人たちにもトオルを見てないかと聞いて回るのですが、誰も知らないと。それで私はトオルが消えてしまったと思ったんです。私が泣きそうになっていると……」


 桐也はその時の事を思い出して一度言葉を止めた。自分の目の前にはトオルではない少年が立っていて『泣き虫のキリコちゃん』とバカにされた記憶がよみがえる。

 美しい母に似た桐也は、幼い頃はよく女の子と間違われていた。


 そのような思い出から、ふと現実に意識を戻せば腕の中の震えが収まっていた。


 稲妻の光に照らされた長い黒髪の隙間から覗く丸い瞳が、話の続きを待っているように見える。

 長い黒髪の少女の震えが止まったことにいくらか安堵しながら桐也は続きを話した。


「トオルは夜になって、ようやく出て来たんです。どこに隠れていたかと言うと……」

「……?」

「トオルは、使用人部屋の押入れの中に隠れて、そこでずっと寝ていたんですよ。あー、よく寝たって言って出てきましたよ」


 少女の肩が弾む。笑ったのだと桐也は感じた。

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