供物乙女は食べられたい

風月那夜

第1話

春来山はるきやまの西側中腹から南を見下ろす男の影が二つある。

 山の麓には五年後に列車が通る予定だ。


 加藤桐也かとうきりやは、うむとひとつ頷いた。


「景色については申し分ない。空気も良い。新鮮な海の幸、山の幸が提供できるだろう」


 桐也はここにホテルを建設する計画を立てている。


「それではこちらの土地をすぐに購入しましょう」


 桐也の横に控えていた秘書の早川透はやかわとおるが手元の手帳に予定を書き込んでいく。

 早川は紺色の背広を着崩すことはないがこめかみから汗が落ちるのを桐也は見た。それでも早川は暑いのだと顔を崩すことはない。


 肌色に近い、薄茶色の背広を着ていた桐也は早々に上着を脱ぎ、脇に抱えている。片手で開襟シャツのボタンをひとつ開けた。潮風が胸を撫でる。


「海が見えるのは良いな」


 眼前に広がる銀の光と深い青色に、桐也は感嘆し熱い息を吐いた。

 ホテルの階層は低めにして、横に長くしたらどうかと桐也は頭の中に想像を広げる。ガラス窓から海を一望できる部屋は一等人気となるに違いない。


「私は初めて海を見ました」


 感慨深く息を吐き出すような声に桐也は斜め後ろを振り返る。

 桐也より二つ年上である早川の瞳に銀の光が星粒のように反射していた。


「そうなのか? 下りてみるか?」

「いえ、それよりも今晩泊まる所を。東側にある村へ向かいましょう。早くしなければ日が落ちます」

「そうだな」


 桐也は懐中時計を確認した。時刻は午後四時になるところ。

 朝一番に帝都を出て電車で五時間。そこから徒歩で春来山の麓まで三時間。そこからまた小一時間かけてここまで登ってきた。


 これから東にある村へはまた一時間ほど歩くことになるだろう。麓へ下りてもいいのだが、麓の付近に民家はなく、駅近くまで戻らねばならない。

 五月と言えど動けば汗が出る。桐也は額の汗を拭って向きを変えた。


 早川を先頭に桐也は後ろをついて歩く。道などない。早川の持つ方位磁石と太陽の位置だけが頼りだ。



 東の村まで結局一時間半もかかった。

 起伏が多く、勾配のきつい獣道を通らなければならず、桐也も早川も肩で息をしている。シャツの袖もズボンの裾も汚れている。


 村に宿はないだろう。どこかひと晩泊まらせてくれる家はあるだろうかと考えながら村に足を踏み入れる。

 叶うなら湯に入りたい。難しければ水を浴びるくらいできればいいが、と桐也は気楽にそう思った。

 近くの畑では、鍬を置いて竹筒を傾けている初老の男がいた。畑仕事を終えたところなのだろう。日が傾いている。山の向こうに日が落ちるまであと三十分もないのではないか。


「すみません、帝都から参りました加藤と申します。私たち、ひと晩泊まれる所を探しているのですが――」

「――もんが……」


 初老の男は手ぬぐいで顔を拭きながら低く発するが、桐也も早川も何を言ったのか聞こえなかった。


「あの?」


 桐也が促すと、初老の男はジロリと睨んできた。

 愛想笑いをおさめて、桐也と早川は背筋を正した。

 受け入れてはもらえていないことを全身で悟ったのだ。


「よそもんはけえれ」

「では、どこか小屋とか、納屋とかでもいいので、どうか一晩――」

「うるせえ、はよう去ね」


 早川が後ろから「桐也様」と囁く。

 桐也は振り返り早川の目を見た。桐也が目蓋を下ろすと早川が前に出る。


「お礼はいたします」


 早川は初老の男の手に袋をのせる。


「なんだあ、これは」

「砂糖です」

「さっ! 砂糖け!」


 初老の男はすぐに袋の口を開けて中に指を突っ込んだ。指先に付いた白いものをぺろりと舐めとって目を大きくする。それから頬をポリポリとかいて小さく口を開いた。


「まあ、あれだな。長老んとこに案内するくれえならな……」

「十分でございます」

「ああ、だけんど……、一人な。よそもんを二人も連れていけんからなぁ」

「承知いたしました」


 初老の男にお辞儀をした早川は、後ろを向くと桐也へ長老の元へ行くよう促した。

 しかし桐也の視線は別の方向にあった。


「あの女性は?」


 村から出て行く腰の曲がった老婆が見える。

 老婆はお盆を持っているようだった。はっきりと見えなかったのは林のある薄闇の向こうに溶けたからだ。


「きようさま――ああ、なんでもない」


 砂糖をもらった男性は、桐也たちに対していくらか警戒がとけているようにも見える。


「で、どっちが長老んとこ行くんだ?」

「早川行ってくれ」

「しかし」


 桐也の視線は未だ老婆の消えた闇の中にある。

 何が気になるのか分からない桐也だが、持ち前の好奇心が刺激されている。そしてどうしてか鼓動がうるさくなるのを感じていた。

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