第66話



 イェリの森には永遠の闇が覆っていた。昼間になれど陽の光は差し込まず、頼りになるのは王が作りし、仮初の太陽のみ。

 魔族の民は長きに渡り人間に怨恨を向けていた。だが、エレノアの存在が彼らの考えを少しずつ塗り替えてゆく。

 身を呈して里の窮地を救った英雄、エレノアの意思を信じ、今一度、人間とともに生きる術を検討していた。


 人間をもっとも憎悪していた魔族の王、オズワーズは人間との戦をとりやめた。多くは語らぬが、民衆には約束の日を待っているように映った。


「むう…エレノアが来ぬと、サンドイッチが食せぬ…」

「キキミック、素直に寂しいと言えぬのか」

「そ…そんなことは、断じて、断じてないのだぞ!? ガストマこそ、寂しいのではないのか!?」


 城内で毛玉のようなキキミックと、長い背中を丸めているガストマが言い争う。


「まさか」

「この、食えぬ男め!」

「…しかしながら、キキミック。口にはせぬが、王はよほど、待ちわびているのだろうな」


 視線の先には、城の頂で木々に覆いつくされている空を見上げているオズの姿があった。気高き漆黒。一対の翼。氷のように冷たい双眸で、何を見ているのか。家臣であるガストマにもあずかり知れない。


「あのオズ様が、人間とともに生きる道を選ぶなど…、そのうち、空が落ちてくるやもしれぬ」

「そうさせたエレノアは、誠に不思議な女だ」


 孤独な王と優しい光のごとき人間の姫の行く末を、ガストマは見とどけてやりたいと思った。それは、キキミックも同様に。



 オズは森の果てを見つめながら、白糸のような白銀の髪を脳裏に浮かべていた。一晩、また一晩と夜を迎えるたびに、やはり奪いにいくべきか、いや、約束を守らねばならぬと問答を繰り返している。

 エレノアの澄み切った声を再び聞きたいと願う。柔らかな笑みを眺めていたいと願う。細くか弱い躰を抱き締めてやりたいと願う。


 共存など、馬鹿げていると思っていた。だが、エレノアが望むのなら、応えてやらねばならない。オズは瞳を閉じた。


「……オズワーズ様! オズワーズ様!」


 その時、血相を変えて駆け寄ってきたのは、伝令係の一般兵士だった。追手からの追随を受けたのか、体中が血で濡れており、背中にいたっては爆風で焼けて丸焦げになっている。ガストマとキキミックは何事かと姿勢を正し、オズはゆっくりと瞳を開けた。


「その傷は…、人間にやられたのか!」

「は…い。我々は、王に命じられた通り、いっさいの静観を、貫いておりました…。よって、戦線は膠着していたので、ありますが…」

「いったい、どうしたというのだ!」


 伝令係の兵士は、絶望に打ちひしがれた様子で涙している。それは、戦死した仲間を思う涙ではなかった。


「突然、人間側から、荷物が……送られてきたのです」

「荷物?」

「その中身を見た我々は、愕然とし……動揺のさなかに砲撃を受けました。ですが……どうか、どうか、せめて、これを王にお届けせねばと思わずにはいられなかったのです…!」


 兵士は涙ながらに懐から麻でできた布包みを取り出した。オズは翼を広げ、兵士の正面に降り立つ。包みを広げると、オズが毎夜思い浮かべていた――美しい白銀の髪の束が入っていた。


「エレノア殿は……反逆の罪状により、…処刑された…とっ!」


 刹那、オズの視界が真っ赤に染まる。


「な…んだと…? エレノアが、殺された…?」


 キキミックは呼吸もろくにできぬというほどに取り乱した。


「皇女であるエレノアを処刑とは……誠であるのか!?」

「オズ様が今手にされているものが証拠である、と…」

「だが、エレノアがおらねば、帝国は…!」

「代わりの娘があるから、エレノア殿は切り捨てた、と…!」

「何故…だ、そんな……嘘だ。あのように心優しいエレノアが…エレノアが…」


 キキミックは一つしかない目玉を潤ませ、信じられないとばかりに動揺をした。


 悲しみか、怒りか。オズの中に沸いて出てくる激情がいったいどちらであるのか理解に及ばない。

 愛おしく思う存在が、髪の一束となって帰ってきた。オズは髪の束を握り、しばしその場に立ち尽くした。


「……認めぬ! このキキミックは、認めぬぞ!」

「よりにもよって、髪を送りつけるとは……下劣な帝国の人間め」


 キキミックとガストマが憤りを露わにする。オズは静かに瞳を閉じ、ただ空を仰いだ。




 エレノアの死は、やがて魔族の里全域に伝わることになる。


 フィーネやベスをはじめとする魔族の民は、皆涙を流した。その夜、里中に追悼の灯りがともされたが、魔族にとって希望の光であった者の訃報に絶望が漂う。

 オズはもの言わぬ髪の束を握り、天に向かって紋章の浮かぶ右手をかざす。


 ――ドーン!と雷鳴が降り注いだ。


 天が、森が、大地が、いかっていた。



(行かせねば、よかったか)


 オズの中に再び、黒い憎しみの感情がよみがえる。心から愛していた者をまたも人間に奪われた。オズに残るものはもう何もない。エレノアがおらぬ世で生きていようと、もうなんの意味も見出さなかった。



 魔族の民の意思は王とともにあった。親愛なる友の死に、必ずや報いなければならない、と気持ちをより強固にする。


 愛を喪った王は、再び憎悪に囚われる。

 降り注ぐ雷鳴は大地を悲しく、震わせた。

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