第65話

慌てるターニャをよそに、キャロルは穏やかに笑っている。一方でチムはまんざらでもない様子であった。


「ああ、もう…皇女殿下の命とあらば、従わざるを得ません。このターニャがお引き受けいたしましょう」


 ターニャはがっくりと肩を落として承諾する。エレノアは自分のことのようにうれしく思った。


「…だが、私に教えを乞うのであれば、約束をしろ。我らの剣は報復をするためにあらず。主や民を守護するためにあるのだと」

「守る…」

「ああそうだ。どれほど憎しみが沸き起こってこようと、それに剣を抜いてはならない。必ず、尊き誇りを守るために、使うのだ」


 ターニャは洗練された剣の柄を握った。


「おかあちゃんと、おとうちゃんを守るために、戦う…」

「ああそうだ」

「オズワーズ様をお守りするために、戦う」

「そうだ」

「人間が、憎くても……抜いたらいけないってこと?」

「そうだ。報復のために使用する剣は、騎士の剣ではない。どんな苦海に身を置こうとも、己を律するのだ。蹂躙された痛みは消えぬだろうが、憎しみに支配されるな。約束できるのならば、貴殿に私の知識を授けよう」


 ターニャの熱心な姿勢を見て、エレノアは感嘆した。キャロルも何度も頷いては、関心したように微笑んでいる。


「約束……するから、おれに剣を教えて!」


 その頃にはチムの警戒も解けていた。お茶にしよう、とキャロルが立ち上がり、エレノアは支度を手伝おうとあとに続く。チムはいつのまにか、ターニャを“お師匠”と呼び、嫌がるターニャにべったりとなついていた。



「よろしかったのですか? お聞きにならなくて。オズワーズ殿は、皇女殿下が想われている方なのでしょう?」


 ティーカップをテーブルに並べたキャロルは、眉を下げてエレノアに問いかけた。


「…本当は、聞きたかったわ。今、どんな風に過ごしているのか、無茶はしていないか、元気にしているか……って。でも、聞いてしまったら恋しくなってしまうもの」


 エレノアは毎夜、オズの温もりに焦がれながら眠りにつく。夜空に浮かぶ月を眺めては切なさに胸が震えるのだ。


「キャロル女官長は、反対しないのね。私が…その、魔族の王と、結ばれたいと願うことに」


 エレノアが喘ぐと、キャロルは包み込むようなまなざしを向けてくる。


「そのようなことは、いたしませんわ。誰を愛そうと、皇女殿下の自由でございます」

「…キャロル女官長」

「それに…思うのです。皇女殿下は、さぞ優しい愛情に触れられたのですね。たとえ、わが国の神話で恐れられている種族であるのだとしても、きっと、その方は永久とわに、あなた様を大切にしてくださるのだとキャロルは確信しておりますよ」


 まるでサンベルク皇帝の回答と真逆であった。

 いや、エレノアは父からもこのような回答がくるものだと信じていたのだ。だからなおさら、心苦しい。

 そればかりか、あのように捲し立てる姿をエレノアは見たことがなかった。軍部の蛮行にしろ、エレノアが信じていたこの国の根幹に揺らぎが生じている。


「それにしても…、綺麗な髪でありましたのに」

「これは…いいのよ。あの子の命と比べれば、粗末なものだから」


 キャロルは紅茶を淹れると、痛々しい目線をエレノアの髪へと向けてきた。片側だけ不揃いになっている髪の束。何故、ハインリヒがこれを欲しがったのかは分からないが、あの時は考えを巡らせる猶予はなかった。


「皇女殿下はお優しく勇敢であられる。……ですが、どうかくれぐれも、御身を大切になさってくださいね」

「分かったわ。心配してくれて、ありがとう」


(なんとしてでも、父上にご理解いただかなくては)


 お茶を運ぶと、チムに追いまわされているターニャの姿があった。エレノアは微笑ましくなり、表情を緩めたが、内心胸騒ぎがしていたのだ。


 信じていたものが一気に崩れ去る――…そのような予感がしていた。

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