第60話

神々しい大聖堂の中央にこの国で最も崇高な人間が立っていた。サンベルク皇帝は、女神オーディアの像の前に立ち、伝統的な刺繍が施された意匠のマントを靡かせている。


「サンベルク皇帝陛下のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」


 エレノアが礼をとると、サンベルク皇帝が振り返る。大聖堂の窓から差し込む光が、敬虔なその人の頭上に降り注いだ。

 エレノアはいつになく緊張した面持ちでサンベルク皇帝の正面に立つ。


「よい。人払いは済ませている。どうか、ここでは父と」


 サンベルク皇帝は穏やかに微笑むと、片手で制してくる。エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。


「…はい、父上」


 贔屓にしているハインリヒから大方の内容は耳にしているはずだ。にもかかわらず、普段と変わらずにひだまりのような様子であった。幼き頃より敬愛しているサンベルク皇帝。

 きっと、理解してもらえるに違いないとエレノアの心に花が咲いた。


「それで、エレノアからの話を聞かせてくれるかな」


 サンベルク皇帝は眉を下げて微笑む。

 エレノアはこぶしを握って、サンベルク皇帝を見つめた。


「…はい。私は、いいえ…我が国は、魔族に生命の源を返し、争いをやめ、ともに生きてゆく誓いを立てるべきだと進言させていただきたく思います」


 この大聖堂は女神オーディアを祭っている。エレノアは女神オーディアに誓って、嘘偽りない気持ちを述べた。

 サンベルク帝国の民からすれば、耳を疑う内容であるだろう。神話の時代、魔神デーモスは魔族を率い、大陸全土を飲み込む厄災を引き起こした。木々は枯れ果て、大地はやせ細り、空は赤く染まった。女神オーディアは人間を守るべく盾となり、尊き血を流して没した。


 故に、魔族は悪しきもの。人間の脅威であるからと、やがて住む世界を隔てることとなった。実際に目にしたことがある者は軍部の人間を差し置いてはいないだろうが、それでもやはり魔族への遺恨は深いとは理解している。


 ――でも、だからどうなのだろう。


 エレノアが目にしてきた魔族の民は、確かに恐ろしいが、それだけではない。


 人間と同じように、いや、人間以上に文化を愛で、仲間との繋がりを重んじている。太陽を望んでいる。何故、兵器を用い、一方的なまでに奪おうとするのか。


 信じたくなかった。誇るべき自国の兵士が、このような蛮行に出ていると分かった時、エレノアはやるせなくなった。落胆した。憤りを感じた。己が見てきたサンベルク帝国は慎ましく、そして高潔な国ではなかったのか。


 エレノアはかねてよりサンベルク皇帝に問うてみたかった。


「…ほう」

「教えてください、父上。何故、魔族の地に攻め入るのですか」

「それは、魔族がわが国の脅威になり得るだからだよ。やむを得ないことなのだ」

「…あんなにも、一方的に? 無力な民をも蹂躙する必要がございますでしょうか」

「おやおや…エレノア、話には聞いていたが、ずいぶんと魔族に肩入れをするようだね」


 サンベルク皇帝はなし崩し的に眉を下げる。無礼であるとは承知の上で、エレノアは食い下がった。


「敬愛する父上に、魔族との関わりを隠匿していたことに関しましては、心よりお詫び申し上げます。ですが、彼らと接してはならない理由が、私には理解できないのです」

「危険なんだと、エレノアに話したつもりだったが?」

「ええ、人間にはない牙や爪、翼や鱗、そして何よりも底知れない力を宿す…恐ろしい種族です。イェリの森で、なれ果てた魔族にも出会いました。神話に出てくる魔族そのものであり、理性を完全に失っていた。そして、我々人間を食らうのだということも知りました。ですが……」

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