第59話




 エレノアは眠っている間に夢を見た。視界には湖面が広がり、エレノアは水の中でぷかぷかと浮かんでいる。声を出すことはできず、ここが狭いのか広いのかも分からないままに漂っていた。


『…本当かいっ? ここに僕たちの子がいるというのかい?』

『ええ、そうよ。私とあなたの子』

『男の子だろうか、女の子だろうか』

『男の子なら、あなたに似てたくましい子に。女の子なら、そうねえ…』

『きっと君のように美しく敬虔な子に育つ』

『ふふ、あなたは、まったくもう。お上手なんだから』


 湖面の外から声が聞こえてくる。だが、エレノアの視界には声の主は映らない。ただ水と光が合わさって揺れているだけだった。


(誰…かしら)


 声を出したくとも、喉の奥で詰まって出てきてはくれない。エレノアに伝わってくるのは、二人の男女の愛おしさと優しさ。水の中を響く声が形容しがたく、心地がよかった。


『それに、オーディア様からお告げがあったのよ』

『へえ…なんと?』

『今度生まれてくる子は、宿願の子だって』

『じゃあ、やはり女の子ということなのか…』

『ふふ、もしかすると、そうなのかもしれない。けれど、そうね…この子には、あまり使命に縛られずに、のびのびと自由に生きてほしいと願ってしまうわ…』


 柔らかい女の声。ぼんやりと湖面に姿が映り込むと、エレノアと同じ白銀の髪が見えた。顔立ちこそは鮮明に確認することができなかったが、エレノアはなんとなく己の母なのではないかと思った。

 そうすると、母とともにいる男の声はサンベルク皇帝だ。


(母上…母上、エレノアはここにおります)


 エレノアを産み落としてすぐに息を引き取った母。エレノアにはその記憶がなく、幼い頃から恋しく感じていた。写真もなければ、日記なども残されていない。母を知る者と知り合ったこともない。そのためエレノアは母がいったいどのような人であったのかすら知らないのだ。


『こんなことを思うなど、――…に叱られてしまうわね』

『僕たちの子だ。どんな生き方をさせようと、かまわないさ』

『ええ、本当にそうなるといい』

『ああ。愛し子よ、はやく姿を見せておくれ』

『この子は私たちの“光”。名前はそうね――…エレノアというのは、どうかしら?』


 名を呼ばれると渦を巻いてエレノアが水の外へと追いやられる。あたたかな父と母の声をもう少し聞いていたかったエレノアはとっさに手を伸ばした。


(父上、母上!)


 眼を開けると、高い天井が広がっている。白を基調とした豪奢な部屋。天幕越しに広々とした空間を見渡し、一人切なくため息をついた。上質なシーツ、そして大きすぎる寝台は、エレノアの寂しさを助長させ、王都に戻ってきた事実を実感させた。

 一級の建築士が手掛けた格式高い宮殿はただでさえ息が詰まる。手入れの行き届いた薔薇園も、大理石でできた廊下も、皇女としての品性を保つために身につけなくてはならない装飾品の数々も。


(戻ってきてしまった)


 己が決めた道だ。かならずやサンベルク皇帝を説得し、人間と魔族を共存に導く。そうしてオズと再会するのだと。だが、エレノアはもうすでにオズが恋しくなっている。弱音など吐いてはならぬのに、夜になるとどうにもオズの温もりを思い出してしまう。いっそ夢に出てきてくれたのなら、どんなにか――と、エレノアは窓辺を見つめた。

 朧月が浮かんでいる。もうすぐ夜明けか。目が覚めてしまったエレノアは、オズも見ているかもしれないと思い、寝台から這い出た。


「あれは……オーディア様が見せてくれたのかしら」


 エレノアはたいてい、寝ている間に見た夢は起きたとたんに忘れてしまう。だが、先ほどの夢の内容は今でも鮮明に覚えていた。

 おそらくあれはエレノアの父、サンベルク皇帝と母の声で間違いはないのだろう。そのような気がした。


「ねえ、オズ。私、母上の声を初めて聞いたの」


 薄手の夜着は侍女に着せられたものだ。ここしばらくは身支度は自分でしていたが、宮殿に戻ると侍女たちがせわしなく動き回る。食事においても給士が必ず控えており、かえって落ち着かない。トカゲの串焼きを町中で立ちながらに食したなどと知れば、侍女たちは卒倒してしまうだろう。


 皇女という立場がどれだけ重要であるのかは理解している。それは国にとっても、民にとっても。女神オーディアに祈りを届けられるのはこの国でエレノアただ一人。民はエレノアを神格化する。それがどうにも寂しく、魔族の里の在り方を思い出しては切なくなるのだ。


「…やさしい声だった。きっと、素敵な女性だったのだわ」


 オズは今頃、城内の中庭にいるのだろうか。それとも先王の眠る場所にいるのだろうか。どちらにせよ光るヒカゲ草の中に立つ王の姿は、あまりに幻想的で美しいのだろう。


 エレノアは夢の内容をオズに話したかった。

 己の名は母がつけてくれたのだ。父と母の“光”なのだという。自由に生きてほしいと願ってくれていた。


 もしも、母が生きていたのなら、エレノアとオズが結ばれることを賛成してくれていたのかもしれない。エレノアの背中を押してくれていたのかもしれない。恋という感情の芽生えを母に話し、オズの素敵な部分を余すことなく伝えることができたはずだ。

 ――だが、母はもういない。


 ふと、エレノアはハインリヒから伝えられた内容を思い出した。


(サンベルク皇帝が…父上が、反対などするわけがないわ)


 父と母のひだまりのような会話。きっと、エレノアの母の腹をともに撫で、我が子への思いを語ってくれていた。これは、女神オーディアが見せてくれた、過去のとある場面の一部に違いない。

(――どんな生き方をさせようとかまわない)


 サンベルク皇帝は、エレノアの幸せを誰よりも願ってくれているのだ。

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