第44話
エレノアが割って入ると、少年を囲っていた兵士たちが狼狽えた。エレノアは少年の目線に合わせるように膝を折る。少年は血涙を絞るようであった。
「彼は何も悪いことをしていないわ」
「しかしっ…なりません!」
「どうして? この子は私の瞳を褒めてくれたのよ?」
エレノアは肩を震わせている少年をじっと見つめた。
(こんな幼い子相手に、なんてひどい)
エレノアは、女神オーディアに愛されたサンベルク帝国の民ともあろう者たちが成す所業だとは思いたくなかった。
「たとえ子どもだとはいえ、我々王都の軍人がいる中に割って入ってきたのです。それですら本来は許されぬこと。身の程をわきまえさせねばなりません」
「ハインリヒ様、どうかあなたには伝わってほしいと思っているのよ」
「っ、ですが…!」
「私はこんな仕打ちなんて、望んでいないわ。この子にひどいことをしないで」
少し前のエレノアだったのなら、軍人相手に強気に出ることはできなかった。エレノアは本来小心な人間であったが、物怖じをせずにいられたのは、イェリの森で過ごした経験があったからである。
霧の深い森をたった一人で踏みしめ、交わるはずのなかった異種族の者たちとかかわった。なれ果ての魔族は軍人たちよりも恐ろしかった。迷子の子どもの母親を探し回り、無事に引き合わせることができた。
エレノアはもう、離宮に閉じこもっていただけの世間知らずな娘ではない。自分の意思をもって、何が正しいのかを判断できるのだ。
「どうか誓って、ハインリヒ様。あなたは私に至誠を尽くしてくれるのでしょう? であれば、私の命に従ってくれるはずよ」
「…!」
「辺境の地の人間も、王都の人間も、皆等しい。あなたは、そう思わないのね?」
広場に集まっている大人たちは好奇の目を向けてくるが、誰一人として少年を庇おうとはしない。エレノアは悔しかった。サンベルク帝国の民は信仰心があり、凪のように心優しいものであると思っていた。
エレノアは祖国の安寧のため、幼き頃より女神オーディアに祈りを届けていたのだ。使命のためだからと自分に言い聞かせ、離宮で寂しい夜を過ごしてきたのだ。決して見返りを求めていたわけではないが、エレノアはここではじめて落胆したのである。
「いったい、あなた様は、何をおっしゃるのか…」
「私は今までろくに外に出たことがなかったから、恥ずかしい話、最近まで国のこともよく知らなかったの。だけどこの目ではじめて目にして分かった。子どもにまで捲し立てるなんて、可笑しいわ」
「ですが、その者は」
「――そうね、もっと言えば、彼くらいの歳の子が靴磨きをして働いているのも変よ。冒険譚をたくさん読んで、唄を歌って、夢や希望を抱かせるべきだわ」
堂々と抗弁を垂れるエレノア。周囲の者はどよめき、己の耳を疑った。サンベルク帝国で娯楽を語るのはご法度であるからだ。ましてや唄を歌うなどありえない。自殺行為にも等しかったのだ。
――遊惰放逸なく勤勉である者、女神オーディアの加護が与えられん。
サンベルク帝国の栄華を築いてきた考え方。これを破る者は厳罰に処された。
節度を守り、信心深くなることは立派だ。だが、唄や踊り、宴などの原始的な文化は民の心をあたたかくするのではないか。やがて強固な絆が生まれ、国を豊かにするのではないか。
オズは広場の物見やぐらに光の玉を作った。陽の光が届かないイェリの森に、太陽を作ったのだ。民たちはそれを見上げ、太陽への憧れを募らせる。人間への憎しみを抱き続け、争いあうのは悲しい。だがエレノアも、オズのように強くありたいと思った。
「…う、た?」
「そうよ。あなたの心がきっと、優しくなる」
「…やさ、しく…」
少年は目を擦り、エレノアを食い入るように見つめた。唄がどのようなものであるのかを知らないのだ。無理もない。エレノアもつい最近まで知らなかった。
「唄…などと、いったいどこで」
「――とにかく、この子の処罰は不問にすること。私のお友達を傷つけたりしたら、いくらハインリヒ様であろうとも、許しません」
「…!」
「お茶のお約束でしたが…申し訳ございません。またの機会に」
エレノアは少年を引き連れてその場を立ち去った。そばに控えていたターニャは青ざめた顔でエレノアを迎え入れる。女官長のキャロルにおいてはにこにこと笑っていたのだった。
「エレノア皇女殿下…! 何故あのようなことを!」
「まあまあ、ターニャ。よいではありませんか」
「キャロル女官長は何故そのように呑気なのか…。我が国の皇女殿下とあろうお方が、唄や希望などと…ゆゆしき事態ですよ!?」
「ようやく皇女殿下がご自身の意思で動かれたのです。私たちは見守ってさしあげるべきですよ」
「…ですが! よりにもよって、このような辺境の地の子どもを庇いたてるなどと…!」
馬車の中でターニャは深くため息をついた。そしてエレノアの隣に座っている靴磨きの少年を睨みつける。まるで汚いものを見るような目であった。
エレノアは緊張で顔を強張らせている少年を宥めるように言い聞かせる。
「あなた、お名前は? 私はね、エレノアよ」
「えっ、あ、あの、さっ、さっき、こ、皇女殿下って…!」
「…言わないでいて、ごめんなさい。きっとあなたが余計に怖がってしまうと思って」
少年は顔を真っ青にして震えた。
「あ、あのっ…ど、どうか、どうか、ごめんなさいっ、ごめんなさい!」
「ああ、どうしましょう。そんなつもりはないのよ? びっくりさせてしまって申し訳なかったわ」
「…っ、え…?」
「私、あなたとお友達になりたいの。広場で靴磨きをしているのよね? よければ、ニールの町のことを私に教えてくれないかしら」
安堵させるように笑いかけると、少年は頬を赤く染めた。エレノアの碧眼をまじまじと見つめ、まるで女神でも見たといわんばかりの感動を覚える。
キャロルは穏やかな眼差しを向け、ターニャは呆れた様子でため息をつく。
「とも、だち…」
「ええ」
「皇女殿下と…、ニールの靴磨きの、俺が…?」
「…できれば、エレノアと呼んでくれたらうれしいのだけれど」
エレノアが眉を下げて懇願するが、ターニャが慌ててそれを制する。
「なりませぬ!」
「私がよいと言っているのよ?」
「ですが、あなた様は皇女殿下であられる! 民への示しがつきませぬ!」
「では、ターニャは私にお友達を作るなというのね?」
エレノアが一枚上手であった。ターニャは苦虫を食ったように口を結び、一部始終を傍観していたキャロルはくすくすと笑っている。
「ねえ、あなたのお名前を教えてくれないかしら」
「…えっと」
「私、あなたと仲良くなれたら、うれしいわ」
少年は何度か口を開けては閉じを繰り返し、ようやくエレノアと視線を合わせた。
「…お、俺は、ナット」
「ナット! 素敵な名前」
「へへ…、そう……かな。死んだ父ちゃんがつけてくれたんだ……」
少年がようやく笑ってくれたことが、エレノアにとっては心からうれしかった。
(亡くなったお父様が…)
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