第43話



 エレノアはニールの町中で馬車に揺られていた。

 移りゆく風景をぼうと眺めながら思い浮かべるのは、オズの顔である。最近知り合ったばかりの魔族の娘のフィーネとも親睦を深めたかったが、一番最初に浮かぶのは闇色の王の姿だ。


 エレノアは誰にも見られない自室にて、こっそり踊りの練習をしていた。

サンベルク帝国の皇女が堂々と禁忌を侵しているとは前代未聞であった。女官長のキャロルや女騎士のターニャに決して悟られてはならなかったが、エレノアには上達させて叶えたい野望があったのだ。


(いつか、オズと踊れないかしら…)


 エレノアは自分自身をもう少し理性的で生真面目な性格だと思っていた。だが、最近になり、そうではないことに気づく。

サンベルク皇帝に謝罪をしなければならない。エレノアは、与えられた使命を放棄してしまっているからだ。


「エレノア皇女殿下、本日もご機嫌麗しく存じ奉ります」

「御機嫌麗しゅう、ハインリヒ様」


 ニールの広場にて馬車が停まり、ハインリヒ・ローレンスがエレノアを出迎える。エレノアはお忍びで休暇をとっているため、ハインリヒは静かな声で礼をとった。


 今日は、辺境の地に遠征に来ているハインリヒとお茶をする段取りが組まれていた。ニールの住民は皇女を直接拝む機会がないため、エレノアの正体も知らない。だが、軍人将校に礼をとられる女など余程身分の高い者であろうと、周囲の者は訝しむ。

 エレノアはハインリヒの手を取るが、あまり気が進まなかった。

 軍人に委縮しているのか、ニールの住人はハインリヒが通ると無言で道を開けてゆく。目を合わせないように気を配っているのか、辺りには緊張が走っていた。

 それもそのはず、エレノアの護衛のため、ハインリヒの小隊所属の兵士を数名配置させているためであった。


「あ…あの」

「いかがなさいましたか。エレノア皇女殿下」

「もう少し、警備を解いてもよいのではないでしょうか…。これでは、町の住民が生活しずらくなってしまうのでは…?」

「いいえ、御身のためでございましょう」

「大丈夫よ。私は、気にしないわ」


 息を潜めてじっとしている者たちを見て、エレノアは申し訳なくなった。


「なりませぬ。御身に何かあれば」

「問題ないわ。皆、私が誰であるかも分からないのでしょう?」

「…ですがっ、本来であれば、辺境の地に住む者があなた様のお近くにあることすら、許されないことでございます」


 納得ができない様子のハインリヒは、エレノアを説き伏せようとする。エレノアは言葉の意味がよく理解できなかった。


(それは、どうして?)


 ――ニールの民も等しく、サンベルク帝国の民であるというのに。

 広場に集まっている群衆の中には、決して上等だとはいえないような衣服を身に着けている子どもがいる。一方で、兵士が身に着けている甲冑は手入れが行き届いており、胸に宿る誇りを示さんがごとく豪奢であった。


 サンベルク帝国の格式を重んじる風潮は素晴らしいはずであるのに、エレノアはふと落莫した気持ちになった。この国の皇女であるにもかかわらず、魔族の里の在り方が恋しくなる。

 不敬であると分かっていても、エレノアの中のわだかまりは消え失せることがなかった。


「さあ、参りましょう」


 ハインリヒはうやうやしく礼をとり、エレノアをエスコートする。煮え切らないままに一歩踏み出すと、突然、エレノアの正面に子どもが飛び出してきた。


「うわぁ~、綺麗な女の人ぉ~…!」


 歳は八つほどであるだろう少年が、熱心な眼差しを向けてくる。

 サスペンダーがついたズボンはところどころ墨で汚れていた。腰には専用の道具をつけてぶらさげており、靴磨きを生業としているように見受けられる。

 エレノアは目を丸くして驚いたが、声をかけてくれたことに嬉しく感じた。せめて少しおしゃべりをしようと思い立ったのだが、それを制したのはハインリヒであった。


「近寄るな。無礼者」

「…っひっ…!」


 エレノアの身分こそは明かさないものの、まるで不審物を警戒するような目だった。たちまち少年は兵士に取り囲まれ、泣きそうな表情を浮かべる。


(誤解よ…!)


 エレノアはとっさに周囲を見回したが、大人たちの誰もが見て見ぬふりをするのだ。気まずそうに下を向き、少年を視界に入れないようにする。まるで自分たちは無関係だと言わんばかりの態度に、エレノアは衝撃を受けた。


「辺境の地の靴磨きの分際で、この方に近寄れると思うな」

「ぼっ…ぼくは、そのっ…ただ、空色の瞳が見たかっただけ、で」

「なんだって…? 貴様っ、図々しいにもほどがあるぞ! 今に、女神オーディアからの糾弾を受けるであろう!」


 兵士たちはたった八つほどの少年に向けて容赦のない檄を飛ばす。ハインリヒも厳然たる態度を貫いた。


「ハインリヒ様、よいのです。彼はただ――…」

「なりません。清らかで尊き御身を、害する者です」

「しかし!」

「あなた様は慈悲深くてお優しい。ですが、あの者は女神の加護を受けていない。故に…危険なのでございます」


 エレノアは少年のもとへ駆け寄ろうと試みたが、ハインリヒにより阻止されてしまった。


(どうして? そんなはず、あるわけないでしょう…?)


 泣き出す少年に大人たちは誰も庇いたてようとしない。その光景はエレノアにとっては信じがたかった。


「ごめん…なさいっ、ごめん、なさい! もう……しません!」

「貴様、名は」

「ひっ…、お許し、ください…ごめ…ん、なさい」

「申せと言っているのだ」


 兵士たちは顔を真っ青にして震えている少年を詰責する。エレノアはこのような行為を望んではいなかった。エレノアを庇護するためとはいえ、あきらかに度が過ぎている。我慢の限界を迎えたエレノアは、ハインリヒの腕を振り払い、少年を取り囲む兵士のもとへと歩み寄った。


「…おやめなさい」

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