第63話

人間の死がこれほどまでに呆気ないものだと知った。


「ああどうして! あんまりだ! 貴女方を虫けらのように扱い、実のお母様を死に追いやった! 一方でのうのうと生きている巴家の皆様を許せなかったのではないですか?」

「ちが」

「違わないはずです。悔しかったのではないですか? 無念だったのではないですか? この世で唯一、貴女を必要としてくれていたはずのお母様にも見限られてしまったのだから!」


 黒曜石のごとき瞳が蓮華の目の前でゆらゆらと揺れている。潜在的な負の感情に訴えかけるような、危うい瞳だ。


 ああ、何故。


 何故、何故何故何故。


「まともな葬儀もあげてもらえず、お母様の遺骨ひとつ残っていない。ああ、なんて酷い家だ。憎い。憎らしい。いっそ、跡形もなく滅んでしまえばいいのに」

「おやめ、ください……!」

「彼らが阿鼻叫喚する顔が見たい! 絶望の淵に追いやりたい!」

「……っ」

「巴家など、燃えて消え去ってしまえと思いませんでしたか……!」


 これ以上黒薔薇嶺二の悪意のある声を聞いていたくなかった。蓮華は、黒光りしている瞳から視線を逸らし、硬く目を閉じる。


 震えている蓮華に反して、黒薔薇嶺二は高揚していた。


 蓮華の思考はしだいに曖昧になる。思い浮かべるのは、千桜の威風堂々とした横顔だ。


(ハンケチをお渡ししたかった)


 狂い咲いている桜の木を見つめる千桜。疎まれながらに育った蓮華に、千桜はかつて自愛しろと言った。だが、それは千桜自身にも言えることだ。


 どうか自分自身を嫌わないでほしかった。実の母親から拒絶されてもなお、たくましく生きている。それだけでなく、国のために大義名分を背負う千桜は立派である。


 いつか千桜が伝えてくれた言葉をそのまま返したい。この気持ちが、きっとそうなのだ。あたたかくて、優しい。


(伝えたかった)


 千桜が自愛できないのなら、今度は、蓮華が――。


「その薄汚い手を放せ、黒薔薇嶺二」


 意識が朦朧とするさなか、毅然とした声が一閃した。



  *



 花の形をした心の欠片が飛んでいった先には、廃屋があった。人気のない林の中に建てられたその場所に――蓮華がいる。


 自動車を横付けした千桜は、蔦が絡みついた廃屋を冷たく睨みつける。


 不自然なほどに警備の手がぬるい。探し出す手立てもないだろうと舐められていたのか。扉を開け放ち中に入ると、カビの生えた臭いがした。


 廃屋の中は人の気配がなく、壊れた家具が置いてあるだけでまるでがらんとしている。


 可笑しい――……間違いなくここに蓮華がいるはずだ。


 千桜の左眼が先ほどから疼いている。蓮華を象徴する淡く儚い色をした心がこの場所を示しているのだ。


 今までは、この特異な左眼を疎ましく思っていた。他人の心が見透かせたとして何になるのか。本音と建て前が見え透いてしまい、興ざめするばかりである。

桜の神とやらが本当にいるのならば、この奇妙な力をもって何をしろというのか。


 千桜はそう考えていたが、今ばかりはこの左眼が役に立つ。


 辺りを見回すと、壁の一部に不自然な箇所があった。明らかに材質が異なるその部分を軽く叩くと、先に空間がある音がする。


(この先か)


 よく見なければ分からない隠し扉の仕掛けが施されていた。千桜は軽々と開け放ち、地下へと繋がる階段を発見する。造りから鑑みるに、戦時下に使われていた防空壕の名残のようだ。


 薄暗い階段を降りると、細長い通路がある。レンガ造りの壁は年季が入っていて、長い間手入れがされていないようだった。


(やはり、ここにいる)


 奥に進めば進むほどに花の形をした心の欠片の濃度が強くなる。踵を返し、最奥につながる通路を進んだ。



 蓮華が幽閉されていた地下室には、見るに堪えないほどの漆黒が渦巻いていた。その場で何故かもぬけの殻と化している美代はもちろんのこと、その中でひと際黒く染まっている男がいる。


(やはり同じ色、形だ)


 ダンスホール‟カナリア″の支配人――黒薔薇嶺二。


 東雲陸軍中将をはじめとする反総理大臣派閥にみられる奇形な心。美代に出ている禍々しい茨のような心も、黒薔薇嶺二のそれと酷似している。

千桜の中で生じる静かなる激昂。


 黒薔薇嶺二はゆっくりと振り返ると、気味の悪い微笑を浮かべる。


(蓮華は……無事か)


 黒薔薇嶺二のそばには、目を丸くして千桜を見つめる蓮華がいた。手足を拘束され、床に倒れこんでいる。頬が赤く腫れあがっているのは、おそらくは美代に何度か殴られたのだろう。


 最悪の事態は避けられたか。


 だが、このような蛮行は許されない。負の感情を制御できぬ美代もほとほと呆れるが、それを利用する黒薔薇嶺二には憤りが隠せない。

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