第64話

「おやおや……これは驚きました。小鳥遊千桜陸軍少佐殿ではございませんか」

「貴様のような人間と挨拶を交えるつもりはない。蓮華を返してもらおう」


 恭しく礼をとる黒薔薇嶺二を一瞥し、千桜は蓮華のもとへと歩みを進める。


「旦那様……どうして」

「お前が、私を呼んだのだ」


 やはり、あの花の心の欠片は蓮華のものだった。闇の中でも存在を保とうとしている淡い心。蓮華の心が千桜を呼んでいたのだ。それをこの特異な左眼が結び付けた。


 これほどの悪意に満ちた空間に居続けては、よほど強固な心をもった者以外は易々と影響を受けてしまうだろう。


 蓮華を言葉で唆し、陥れるつもりだったのか。


 真っ青な顔をする蓮華の肩を抱き、冷たく黒薔薇嶺二を睨みつける。


「まさか、この場所を突き止めてしまうとは恐れ入りました」

「蓮華に何用だ。巴美代は貴様の差し金だろう」


 ちらりと美代を見れば、魂を引き抜かれたように呆然としている。また、依然として黒薔薇嶺二と酷似した黒い心の茨が体中に巻き付いていた。ここで何をするつもりだったのか。あまりに不自然な状況に眉を顰める。


「滅相もございません。私は、ご婦人のご相談を聞き入れただけでございます」

「そうして、これまでにどれほどの手駒を手に入れてきた」


 千桜は言葉を鋭くし、冷ややかに目を細めた。


「この世は貴様の遊び場ではない」


 総理大臣指示派議員の不審死事件の黒幕は黒薔薇嶺二であるのだろうと、視線をもって伝える。わざわざ死体の近くに黒い薔薇を残させるなど分かりやすいにもほどがあるが、この男は随分と世界の中心でありたいらしい。


 黒薔薇嶺二は、中央のテーブルに飾られている黒い薔薇を恍惚げに見つめた。


「しかしながら、この世には神に選ばれた人間がいることに変わりはないでしょう?」

「神……?」

「私と、そちらの蓮華様のように」


 解せない、とばかりに千桜は眉を顰める。


 蓮華はこの国の実権を握る議員でもなければ、軍部の人間でもない。華族の当主と使用人の間に生まれたごく一般の私生児だ。オペラでいう悲劇的な演出を好む黒薔薇嶺二が、わざわざ出張ってくる理由は何なのか。


「私は黒い薔薇の花の神から。そしてそちらの蓮華様は蓮華の花の神からの寵愛を受けている。その力は偉大なのです。ですから、この世界は私たちのためにあると言っても過言ではない」

「……先ほどから何を言っている?」


 おそらくは、黒薔薇嶺二は洗脳の術に長けているのだろう。

 人間の心の隙間につけこみ、悪意の種を植え付ける。負の感情がしだいに肥大すると、たちまち理性を飛ばしてしまう。


 そうして気が狂った人間は黒い心に飲み込まれ、素面の状態では考えられもしない暴挙に出るというわけだ。

 直接手を下さずに人間を操れる――神に選ばれた存在だと正気で思っているのか。


 それに何故、そこに蓮華の名前が挙がるのか。解せない。


「理想郷を作る同志として勧誘を試みたのですが……失敗してしまいましたねえ」

「ふざけるな、私にはペテンは通用しない」

「ふざけてなどいませんよ。いませんとも」


 千桜が冷たく言い放つと、黒薔薇嶺二はすうと目を細めた。


「そうそう、それからその左眼……」


 よく観察するように、前髪で隠れている千桜の左眼を凝視している。


「隠しているようですが、きっと特異なものでしょう? 興味があります。この世界は、いったいどんな見え方をしているのでしょうね?」


(つくづく気色が悪い)


 蓮華を直接攫ったのは黒薔薇嶺二ではなく義母の美代だ。裏で糸を引いているとしても、洗脳の類ともなれば物的証拠はなく、これだけでは警察への連行は難しい。


 出方を見ているが、黒薔薇嶺二は焦燥のひとつすら浮かべていないのだ。


「ああ、愉しい。愉しい。これほど高揚することはありません」

「その減らない口を今すぐ封じてやろう」

「ふふふ……それは困りますねえ。あと少しのところではありましたが、今夜はここまでとさせていただきましょうか」


 黒薔薇嶺二はのらりくらりと笑うと、美代に横目を向けた。


「ご婦人――貴女はもう用済みです」


 不自然なまでに棒立ちしていた美代が、黒薔薇嶺二の一声によりゆらりと動きを見せる。


「そうですねえ……ふむ、炎の中で踊りながら焼け死んでいただきましょう」


 あまりに酷薄な命令に耳を疑った。

 千桜は静かに息をのむ。同様に蓮華もごくりと生唾をのんだ。

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