第61話
そして逡巡する。あの時、美代を信じずに突き放しているべきだったのだろうか。巴家から目を背け、保身することが正しかったのだろうか。
それは何か違う気がするのだ。蓮華が千桜の妻になるうえで、乗り越えなければならない壁だった。蓮華は自分の力でわだかまりを解消させたかったのだが、浅はかさだったのかもしれない。
「許せない。許せない許せない許せない」
「うっ」
「お前なんてね、いっそ死んでしまえばいい。そうよ、死んで詫びなさい。死んでしまえ! アハハハッ、あの女のように滑稽にねえぇ……‼」
美代の瞳の憎悪がさらに増してゆく。美代は果たして以前からこのような顔をしていただろうか。肌は青白く、目元には隈ができている。唇には血が通っていなかった。加えて焦点があっていない瞳だ。まるで悪意に憑りつかれているかのようであり、おぞましく映った。
「――お楽しみのところ申し訳ございません」
再び振り上げられた右手。蓮華が目を瞑ると、気品ある男の声が聞こえた。
(この声は……)
第三者の介入に安堵するどころか、体温がさらに二、三度下がった気さえした。まるで闇夜に引きずり込むその声を、蓮華は過去に耳にしたことがある。
「こんばんは、よい夜ですね。巴蓮華様」
瞼を開くと、黒薔薇嶺二がうやうやしく礼をとっている。艶やかな髪に、西洋人形のような顔立ち、悪意に満ちた危険な人物が再び目の前に現れた。
「黒薔薇様……私、どうしてもこの女が許せないのです。いくら痛めつけても足りないのです」
「ええ、ええ、ですが、貴女のお役目はもはやここまででしょう」
「そんな、お待ちください。黒薔薇様は、私のお気持ちを組んでくださるとおっしゃっていたではないですか」
「そうですね。おかげでとても面白いものが見られましたし、貴女には感謝しているのですよ」
美代は黒薔薇嶺二に縋りついているようだ。この二人がどうして繋がっているのかは蓮華には理解ができずにいたが、まるで裏で糸を引いていたのは黒薔薇嶺二であるかのようである。
「ご苦労様でした。ご婦人、私が良いというまで――静かにしていてくださいね」
狼狽える美代を冷たく一瞥すると、美代は「分かりました」と不自然に押し黙った。
「巴蓮華様、私は貴方とお話がしたい」
「……話?」
腫れあがった頬を冷たい指先で撫でられ、悪寒がした。怖い。あまりこの目に見られていたくはない。笑っているようで笑っていない。一切の光を宿さない生気のない目だ。
この場に長居してはならない。今すぐ逃げなくてはならない。だが、まるで躰の力が入らない。
蓮華は小刻みに躰を震わせ、心の中で千桜の名前を何度も呼んだ。
「貴方の心の闇を、どうか私にお見せください」
黒薔薇嶺二は目を三日月型に細めて笑った。
*
千桜は自動車に乗り込む直前に、はな子から小袋を手渡された。
「本来は私からお渡しするべきものではないのですが、今、お坊ちゃまのお手にあるべきだと思いまして……」
何かと聞けば、蓮華が真心を込めて縫ったハンケチだという。千桜は言葉をなくし、綺麗な小袋を握り締めた。
何事もなければ、帰宅後に手渡されるはずだったと聞かされ、千桜は静かに苛立った。
「蓮華様は本当に、手渡されるのを楽しみにしていらっしゃいました」
「……そうか」
「最近は表情が豊かになられていたのに……どうして」
はな子が悔しげに唇を結ぶ。千桜は小さくため息をついた。
「巴美代を屋敷に招いてしまったのは、私の落ち度でもある」
日中に見かけた女は間違いなく巴藤三郎の妻美代であった。茨のようにまとわりついている黒い心の色も確認できた。あの場で見失っていなければ、この状況は未然に防げたはずだ。
あの心の色を持っている人間の思考は危うい。反社会的な動きをする軍部の人間にもその兆候があるほどだ。
もし仮に黒薔薇嶺二に何らかの影響を及ぼされているとすれば、蓮華の身が危ぶまれる。一刻も早く探し出し、連れ帰らねばならない。
「いいえ、お坊ちゃまは何も悪うございません。私がもっと警戒をしていれば……」
はな子は表情を暗くし、うつむいた。
「蓮華様は嬉しそうにされていたのです。美代様のお言葉を信じたいと思われたのでしょう」
「ああ」
「だけど、あんまりです……! 蓮華様が何をしたというのですか。生まれてきた子に罪はないというのに!」
生まれた子には罪はない。その言葉を千桜は無言で噛みしめた。
千桜自身も生まれ持った左眼のせいで母親に疎まれながらに育った。今の世は、他者と異なる境遇にある者を受け入れることなく、頑なに拒む傾向にある。人間の尊厳がこの先もこのままであってよいはずがないのだ。
「必ず、蓮華様を連れてお戻りくださいまし」
「約束しよう」
「お坊ちゃま、くれぐれもお気をつけて」
家令も玄関先まで出てくると、千桜は踵を返して自動車に乗り込んだ。
――ここは蓮華の帰る家だ。
相手が誰であろうが、奪わせやしない。
(待っていろ、今向かう)
ひらひらと飛んでいる心の花を、輝く左眼で追いかけた。
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