第60話


 カビの生えた臭いがする。


 ぼんやりとした意識が徐々に輪郭を形成すると、蓮華はゆっくりと瞼を開けた。蓮華は冷たい床に寝転がっていた。


 手足の自由がきかない。縄で拘束されている、と気づくのに少々時間がかかった。


 窓がない薄暗い部屋。中央のテーブルには一輪の黒い薔薇が咲いている。


(ここは……)


 起き上がろうとすると、頭に鈍い痛みがはしる。


(たしか、奥様と自動車にのって、それから――)


 どっと押し寄せる焦燥感、不安。蓮華は義母の美代に薬品を嗅がされ、意識を飛ばしたことを思い出す。


 心から謝罪をしてくれたのだと思った。蓮華も逃げずに向き合うべきだと思い、はな子の制止を振り切って美代についていってしまった。

巴家で女中をしていた頃は、よく縄で縛られて折檻されていた。三日ほど放置されていても、蓮華は顔色を変えずに床に寝転がっていたままだったが、今は違う。手首や脚を動かし、縄を緩めようと試みる。だが、びくともしなかった。


 美代は今も変わらず蓮華に怨嗟を募らせていた。娘だと言ったのは嘘だった。悲しいのかは分からない。ただ胸に居座るのは、虚しさだった。


 蓮華はおそらく少しばかり浮かれていたのかもしれない。実の母親が他界してからというもの、まだ幼かった蓮華は素直に甘えられる存在がほしかったのだ。やはり、身の丈にあわない願いだったのか――。


 ふと、蓮華は千桜の顔を思い浮かべた。


(あれからどのくらい眠ってしまったのかしら)


 窓がないために、今が日暮れ前なのか、日暮れ後なのかを確認する術がない。


(はやく、ここから出て、帰らねば……)


 蓮華は床を這いつくばり、出口を探す。


 以前の蓮華であれば、何も考えずに折檻されていた。暴力を振るわれても、自分を客観視すればいくらか痛みを忘れられたのだ。だが、今の蓮華には揺るがない強い信念がある。


(旦那様……)


 おそらくは、すでに日は沈んでしまっているのだろう。帰宅した千桜の心中を思うと、蓮華は胸が痛くなった。


「あら、ようやく起きたのね」


 部屋の扉が開き、人が入ってくる。重い頭を上げると、そこには美代が立っていた。


「いっそこのまま目覚めなくてもよかったのだけれど」


 美代の他に人の気配はない。千代や喜代は一緒ではないようだった。美代は中央のテーブルに飾られている黒い薔薇をうっとりと眺めると、一歩、蓮華のもとに近づいた。


「ふふ、もう少し強い薬を盛っておくべきだったかしら」

「……っ」

「ここまでくるのに随分と時間がかかってしまったけど、お前が騙されやすい阿保でよかったわ」


 瞳には憎悪が浮かんでいる。まるで、用意周到な計画があったようだ。あえて家令が不在にしている時間に尋ねてきた節さえも感じる。小鳥遊家当主千桜の逆鱗に触れるとしても、顧みることなく計画を実行した執念深さ。蓮華は美代の表情を前にして、ぶるりと震えあがった。


「ねえ、教えてくれない? どうして、お前だけが幸せそうにしているのか」

「……奥、様」

「汚らしい非嫡出子のお前が、誰かに愛されるはずもないのに。可笑しいわよね?」


 まるで虫けらを見るような目だった。図に乗るな、と釘をさすような言い方に背筋がひやりとする。


 蓮華は重々に承知していた。小鳥遊家で生活をしてしばらくの間も、きっとそのはずだと思っていた。蓮華の境遇へ向ける同情なのだろう、と信じて疑わなかったが、千桜は蓮華を‟愛する″と言ってくれたのだ。


 千桜の言葉はすぐには受け入れられなかったが、時間をかけて、少しずつ理解していたつもりだった。


「私はね、納得ができないの。お前は生まれてくるべきではなかったはずなのに」

「や、め」

「なぜ、お前ばかり?」

「……おく、さま」

「千代と喜代の縁談は、うまくいかなかったのに。なぜ――お前は」

「……いたっ」


 美代がわなわなと震えると、蓮華の髪を強く引っ張り上げた。


 以前であれば、即座に平謝りをしていた。何事も自分に非があったのだと思い込む方が楽だったのだ。


 当時のもぬけの殻のようだった蓮華はもういない。美代は、光の宿った蓮華の瞳を目の当たりにしてさらに激昂した。


「なによ、その目」

「……うっ」

「謝りなさいよ」

「……」

「謝りなさいと言っているの‼」


 パシン、と鈍い音が鳴る。


 蓮華はその場に倒れこむと、ぎゅっと唇を噛んだ。


「私たちを差し置いて、本当に恩知らずな女。お前が愛されるはずがないでしょう」

「……めて、ください」

「なに、まさか歯向かっているの? 汚い非嫡出子のお前が? 名誉ある華族の私に?」


 ありえない、ともう一度打たれる。何度も、何度も、蓮華の頬を打つ美代の憎悪が晴れることはない。


 蓮華は謝罪の言葉を口にせず、ひたすらに痛みを押しこらえて沈黙を守る。なんの甲斐もないとは分かっていても、心の中で千桜の名前を呼んだ。

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