第59話


 蓮華は夢を見ていた。


 これは、まだ母親が存命だった幼き頃の記憶。隙間風が吹き込む屋根裏部屋で、蓮華は母親に抱き着いている。


「ねえ、お母さん、どうして蓮華たちは、みんなと一緒のご飯を食べられないの?」


 蓮華が尋ねると、母親は悲しげに微笑んだ。


「あの方々と私たちは、住む世界が違うからよ」

「なんで? どうして? 違わないよ、同じ家に住んでるのに」


 蓮華には母親の言葉の意味が理解できなかった。


 その日、巴家では親族が集まった、豪勢な晩餐会が開催されていた。日が暮れるとレコードがかかり、大層に飾り立てた人々が来訪する。厨房では、いつになく美味しそうな香りが漂っていたため、蓮華は給仕中にお腹の音が鳴った。


 テーブルには見たこともないような料理が並び、きらきらと輝いて見えた。あまりじっと見入ってしまっては怒られてしまうため、蓮華は厨房に戻り、皿洗いに徹する。水は冷たく、赤みがかかった手の甲はひりひりする。だが、痛い、とは言えなかった。近くにいる大人たちに伝えれば、たちまち打たれてしまうからだ。


 くたくたになって疲れてしまっても、休んではいけない。お腹が空いても、我慢をしなくてはいけない。そうしなくては、髪の毛を引っ張られたり、厳しく罵倒されてしまうから、蓮華は辛くても耐え抜くしかなかった。


 だが一方で、年が近い千代と喜代は悠々自適な生活をしている。いつでも好きなものを食べられ、綺麗な洋服を着られる。ほしいものをほしいまままにねだったかと思えば、飽きたらあっけなく捨ててしまう。


 どうしてこれほどまでに違うものなのか。晩餐会に参加していた華族たちも同様であり、蓮華と華族とでは、何かが違うらしい。

豪華に盛り付けられた料理には手をつけず、前のめりで世間話に花を咲かせていた。そのどれもが蓮華には分からない小難しい内容ばかりである。


 晩餐会が終わる頃には大量の残飯が出てしまった。蓮華にとっては、一生かかってもありつけないようなご馳走ばかりであったが、華族たちはまるで興味がないらしい。蓮華は、残り物にありつけるのではないかと期待したが、提供されたのはいつもの冷えた白米とたくあんのみ。母親は何度も頭を下げ、それを受け取った。


「あの方々は華族だから、お母さんや蓮華とは違うのよ」


 母親はよくそう言っていたが、幼い蓮華にはやはり言葉の意味が理解できない。


 華族ではないから、蓮華は千代や喜代のように玩具で遊べないのか。家族ではないから、腹が減ってしまっても我慢せねばならないのか。とりわけ、蓮華と百合子においては他の使用人よりも格段に待遇が悪い。まるで塵のように扱われる日々であった。


「どうして、蓮華とお母さんは華族じゃないの?」


 蓮華の父親が巴家の当主藤三郎である事実は知っていた。一度も会話したことがなく、蓮華にとっては怖い存在だったが、腹違いの娘である千代と美代と比べても、何故ここまで扱いが異なるものなのか。


 尋ねると、母親の表情が暗くなる。


「ごめんなさいね……蓮華、ごめんなさい」


 母親は蓮華を抱き締めると、それだけ口にして何も答えてはくれなかった。


 おそらくは、母親の人生は地獄であったのだ。子を身ごもり、一度は生きがいを見出しかけた母親であったが、待ち受けるのは途方もない暗がりの日々。我が子のために強くあろうとする半面、心と躰はひどくやせ細っていた。


 ‟ごめん″ではなく、もっと他の言葉がほしかった。


 たった一度でいい。


 本当は、それでも蓮華さえいれば強くいられる――と。


 ‟産んでよかった″と言ってほしかった。

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