第58話




 日が沈んだ頃、千桜が帰宅した小鳥遊家は騒然としていた。


「申し訳ございません……! お坊ちゃま」


 義母である美代と出かけたはずの蓮華が、日暮れになっても戻らない。はな子は顔を真っ青にしてその場で平謝りをする。


 千桜は焦燥と苛立ちで思考が支配されつつも、当主として平静を保ちはな子を見やった。


「何故、外出を許した」

「そ、それは……申し訳ございません、すべて、浅慮であった私の責任でございます」


 はな子は何かを言いかけて、再び深々と頭を下げる。


 油断をしていた――のは自分の方だと千桜はため息をつく。強引に縁談を進める形となったが、社交辞令として、藤三郎を通して巴家には幾何かの優遇をさせてもらっていた。巴家の人間はここしばらくおとなしくしていたために、監視の目を緩めていたのも問題だった。


 恨みを募らせ、突然暴挙に出る可能性も考慮していたはずだったのに。


(あの時の女は巴美代だった。私が見失わなければ!)


 千桜は静かに拳を握る。


(それに見間違えでなければ、あの女は――)


 嫌な予感がする。ダンスホール‟カナリア‟に出入りをする者に頻繁に浮かんでいた黒い毒蛇のような、ねっとりと躰中に絡みつく茨のような心。それが美代にも見えた。見当違いでなければ、美代の精神は闇よりも深い悪意で汚染されている。


(何故、取り逃がした)


 ドン!と壁に拳を打ち付ける。


 おそらくはあのあと小鳥遊家を訪れたのだ。計画的な犯行であったのかは定かではない。よりによって家令の留守をつくとは――反吐が出る。


「お坊ちゃま、只今警察に捜索願いを出してまいりました……!」

「……無駄だ。あのような腑抜けた連中をあてにはできない」


 家令が慌てて駆けてくると、千桜は苛立ちを押しこらえ、極めて冷静に制した。


「申し訳ございません……! 蓮華様に何かあったら、私」

「お前の責任ではない。私が軽薄であったのだ」

「ですが……!」


 はな子の訴えを受け流し、千桜を身を翻して屋敷の中を闊歩する。


 温度のない瞳には、冷ややかな炎が灯る。これまでに戦場でいくつもの死線を潜り抜けてきたが、何度窮地に立たされたとしても思考の冷静さは欠かなかった。


 仲間の命も、自分の命も、決して軽んじているわけではない。だが、国を正しく導くためと考えれば、いつか散らすこともやむを得ないと考えていた。


 千桜は何にも執着しなかった。奇妙な片目があるせいで、母に疎まれながら育った千桜は、自分をも冷静に客観視するようになった。


 そうして、様々な心の色が浮かぶ社会を俯瞰し、時に憤りや疎ましさを感じながらも、正しく導くことを使命として今日まで生きてきた。


 だが。


(裏にいるのは、お前か。黒薔薇嶺二……!)


 千桜は怒りで震えた。


 世界は我がものであるとでも思っているつもりか。


(人間は、貴様の玩具ではない……!)


 過激派連中の歪みにつけ込み、良からぬ働きかけをして、すべての民が平等であれるはずの民主主義をも崩そうとしている。

まるで遊び半分のような感覚だろう。上流階級のみが利用できるダンスホールを設立するなどとは、随分な選民思考があるようだ。馬鹿馬鹿しい。壊れるべきなのは、民主主義ではなく、この階級社会だ。こんなものがあるから、黒薔薇嶺二のような化け物が生まれる。


 中庭で輝く狂い咲きの桜を見上げ、千桜はさらに憤りを募らせた。


(無能な桜の神め、こんなものを授けて、何の意味があった)


 春夏秋冬関係なく咲き誇っている不気味な桜。祖母はこの桜を大層気に入っていたようだが、千桜にとっては煩わしいものでしかなかった。


 夜風にのって、前髪の隙間から桜色の左眼が現れる。他人の悪意を見抜けたところで、それがなんだというのだ。謀り事に気づけたところで、それがなんだ。ぎりぎりと歯を噛みしめ、桜吹雪をつくる巨木を冷たく睨みつける。


‟決して散らぬ桜の木のように。だから、私はその瞳を素敵だと……思うのです″


 蓮華の言葉が脳裏に浮かぶ。


 儚げな表情。見たこともないような――まっさらな心の色。いや、見間違いでなければあの夜、彼女の周りには蓮華の花が咲いていた。


 少しの濁りもない。このような綺麗な心があるのかと目を疑った。氷のように冷え切った千桜の胸に、形容しがたいあたたかさを覚える。千桜はしばし歌声に聴き入り、無意識のうちに声をかけていた。


 何にも代えがたい大切な存在。


 千桜にとってはじめてできた‟愛する″者。


 奪わせない。


 穢させない。


 そう簡単にくれてやるものか。

 

 力強く狂い咲きの桜を見上げる。季節外れの花びらが千桜を取り囲むように渦を作った。

 

 桜色の左眼が宝石のごとく発光する。迸る熱を持ち、千桜はとっさに手のひらを覆いかぶせる。

 

 ――色が見える。まっさらな、だが、儚く繊細な花びらの形をした、心の色。


 ひらひらと何処かへ向かって飛んでゆくそれを目で追いかける。


 まるで千桜を呼んでいるようだった。こちらに来い、と言われているような気さえした。


「蓮華か……?」


 気でもおかしくなったのか、とは思わなかった。たしかに、儚く美しい心が千桜を呼んでいる。


 燃え滾るような左眼を手で押さえ、再び狂い咲きの桜を見上げた。


「神がいるのならば、私を導け。貴様が望む大義名分も、すべて私が引き受けてやろう」


 桜の木はそれに応じるように、神々しく光り輝く。


 千桜は踵を返し、屋敷をあとにした。

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