第57話
小鳥遊家の敷地の外に一台の自動車が停められていた。美代に連れられ、後部座席に乗車するとゆっくりと発車する。
遠のいてゆく小鳥遊家の屋敷を見つめ、蓮華は深呼吸をした。
(はな子さん、ご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい)
少しだけ話をして、それが済んだら帰ろう。そうしたら帰宅した千桜を出迎えて、夕食前にハンケチを手渡す。
千桜から事前の許可を得ずに美代と会った……と告げたら叱られてしまうかもしれないが、それでも蓮華は、今きちんと向き合っておかねばならないと漠然と思ったのだ。
帝都の街が右から左へと流れてゆく。
蓮華は持参した巾着の紐を握り締め、窓の外を眺めた。
「……ほんっとうに、間抜けねえ」
その刹那、蓮華の口元に布が押し当てられる。
背後から聞こえる冷え切った声は――美代のものだ。
(な、ぜ……そんな)
背後から腕が回り、躰が拘束される。首を回して後方を見ると、先ほどまで優し気な笑みを向けてくれていたはずの美代はそこにはいなかった。
瞳に浮かぶのは、果てしなく深い憎悪。怒り。嫉妬。――殺意。
「んっ……」
「おまえを我が子だと思うはずがないだろうに」
「……っ」
「さあ、お眠り。目覚めたらとっておきの地獄を見せてあげるわ」
つんとした薬品の香りがする。しだいに蓮華の意識が遠のいてゆき、視界がかすむ。
(旦那様……)
何者も寄せ付けない冷たい瞳を思い浮かべる。それとは裏腹の優しい言葉を思い出す。いつからか蓮華は、千桜の帰りを今か今かと待っていた。千桜に借りた小説を読んでいる時、お茶の稽古をしている時、炊事の手伝いをしている時、家令の目を盗み、こっそりと屋敷の掃除をしている時、気を抜くと蓮華はいつも千桜の顔を思い浮かべている。
そうすると、無限に心があたたかくなった。
いや、時として寂しさをも感じていたのかもしれない。
それらは、これまで蓮華が知らなかった気持ち。
‟愛する″ということ――。
蓮華の瞳が伏せられ、躰の力が抜けていく。
――ただ、千桜にハンケチが渡せなかったことが心残りだった。
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