第56話

美代はそのまま蓮華を抱き締めた。優しく髪を梳き、存在をたしかめるように。蓮華はしばらく放心状態になった。


「本当よ? 本当に、猛省したの。私、どうかしていた」

「おく、さま」

「そうではなくて、母と呼んではくれないかしら」

「お……かあ、さま?」


 蓮華は言葉を嚙み締めると、静かな水面に波が立ってゆくのを実感する。


「ああ、嬉しい」

「おかあ、さま」

「そうよ、蓮華。かわいいかわいい私の蓮華……」


 本当に蓮華を受け入れてくれるのだろうか。あたたかい体温は本物だろうか。


 もう二度と巴家の人間と関わる機会はないものだと思っていた。千桜の来訪があったあの日は、女郎屋に売り飛ばされる寸前だったのだ。蓮華などどうとでもなれと言わんばかりの態度であった。


 だが、こうして会いにきてくれた? 蓮華を抱き締める腕は、まるで本物の母親のもののようにも思えた。


「れ、蓮華様……」

「突然訪ねてしまって申し訳ないけれど、親子水入らずでお話をさせていただけないでしょうか」


 狼狽するはな子に美代は切なげに眉を下げた。


「で、ですが、旦那様の言いつけがございますので」

「きちんと夕刻までには送り届けます。ねえ、蓮華、いいでしょう?」


 蓮華は美代をぼうっと見つめる。


(本気で泣いていらっしゃる……)


 わざわざ美代から歩み寄ってくれているのに、無碍にするのは忍びない。少しだけ話すだけなら――と、はな子の方へ振り返る。


「かならず、夕刻までには戻ります。はな子さん、どうか私の我儘をお許しいただけないでしょうか」


 蓮華がはっきりと告げると、はな子は心配そうに眉を下げている。


「蓮華様が、そこまでおっしゃるのなら……」

「ご温情心から感謝いたします……!」


 蓮華は少しばかり出かける支度をするために、一度私室へと戻った。あとをついてくるはな子は、何か言いたげに蓮華を見つめる。


「お一人では心配です。差し支えなければ、私もついてゆきましょうか?」

「いいえ、お手間をおかけしてしまいますし、私一人で平気です」

「ですが……」


 ほんの少し話すだけだ。ここでの暮らしを伝えるだけだ。仮にも十九年住まわせてもらった恩義がある。矜持の塊であった美代が自ら出向いてくれているのだから、蓮華も応えてやらねばならない。


「おそらく私は、ずっと逃げていたのです。逃避することで、保身していた。だけど、いつかは向き合わねばならないものなのでしょう」


 蓮華も千桜のようにありたい。正しい道をひたすらに突き進む勇ましい背中を追いかけ、手を伸ばす。小鳥遊家に嫁いでから、人間の優しさやあたたかさを知った。同時に、悲しさや苦しみがあるのだと知った。


 それが人間であり、さまざまな喜びや苦悩を背負って、誰もが力強く生きている。それなのに蓮華は、自分の置かれた境遇から逃げ、心を閉ざした傀儡になった。弱い。弱すぎる。千桜の隣に立つためには、そんな自分と決別せねばならないと常日頃考えていた。


 きっと、美代と対話をすれば何かが変わるだろう。


 千桜の片翼となるに恥じない生き方をしたいと、強く思ったのだ。

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