第55話
不安であるような、安堵するような。鳥は片翼では飛べない。両翼があることにより、大空を羽ばたける――。蓮華は、千桜の片翼として相応しい女になれているだろうか。
そわそわしつつ、ハンケチを綺麗に折りたたむ。
千桜を思い、桜の刺繍を施したそれを紙の包みに入れる。
(帰宅されたら、さっそくお渡ししよう)
大事に文机の引き出しに入れて、はな子と向き直った――その時だ。
「ごめんくださいまし~」
屋敷の玄関から、女の声が聞こえてきた。今の時間は家令が買い出しをしていて、留守にしている。はな子がすかさず立ち上がるそのあとを、蓮華もついてゆく。
(このお声は――)
聞き覚えがある。いや、きっと勘違いではないのだろう。千桜の了承を得ていない勝手な行動ではあるが、気になってしまって来客の姿を確認せずにはいられない。
はな子が玄関の扉を開けると、義母の美代が温厚な笑みを浮かべて立っていた。
「すみませんが、屋敷の者に御用でございますでしょうか」
はな子が尋ねると、美代は目を細める。はな子の背後に立っている蓮華を視界に入れると、見たこともないような穏和な表情を向けてきた。
「私は巴美代と申します。うちの娘が大変お世話になっていて……ちょうど近くを通りかかったものですから、ご挨拶をと思ったのでございます」
何故、蓮華に親密げな笑みを向けるのか。これまでの巴家での生活を思うと、どうしても解せなかった。
藤三郎と使用人の間にできた子である蓮華を、誰よりも疎ましく思っていたのは美代であったはず。
暴言を吐く、無視をする、叩く、蹴るなどは当たり前であり、優しい言葉をかけてもらった試しは一度だってない。
「蓮華、元気だったかしら?」
「あ……あの」
「私ね、あれからとても反省をしたのよ。貴女は巴家の娘であることに変わりはなかったはずなのに、本当にごめんなさいね」
涙ぐんで目元をハンケチで拭う美代を、蓮華は唖然と見つめた。
はな子はどう対応すればよいか困惑した。家令がいれば適格な判断を下せるはずだが、屋敷に通すか追い返すべきか、はな子には決めかねる。
「あの日は見送りできなかったものだから、後悔していたのよ。けれどまあ、幸せそうで本当に安心したわ」
蓮華はじっと美代を見つめた。
(なんと、言えばよいのかしら)
巴家で下働きをしていた頃の生活は、今思うと辛く厳しいものだったのかもしれない。あの場所で生きねばならなかった蓮華は、感情や思考を殺すことにより、なんとか正気を保っていた。
けれど、本当はどうであったのだろう。蓮華は巴家の人間に何かを求めたかったのだろうか。家族として認めてほしかったのだろうか。母親や己を侮辱する行為を詫びてほしかったのだろうか。理不尽に叱責するのではなく、あたたかな言葉をかけてほしかったのだろうか。
「ごめんなさいね……ごめんなさいね」
「……奥様」
「今更謝っても遅いでしょうけれど、どうかこんな母を許してくれないかしら」
悲痛に眉を顰めて涙を流す美代を食い入るように見る。
「馬鹿なことをした。こんなにも愛おしい存在だったのに」
「私は」
「……顔を見せて。ああ、こんなに愛らしくなって。小鳥遊様にはよくしていただいているの? できれば、これまでどんな暮らしをしていたのか、母に話してはくれない?」
まるで、本当に娘を愛でるような目をする。蓮華の正面までやってくると、両手で頬を包み込んだ。
あたたかな肌の感触を覚えて、蓮華は目を丸くした。
母親のぬくもりはとうの昔に忘れ去ったはずだ。眠る前に子守唄を歌ってくれた。寒い夜は抱き着いて眠った。それらの記憶は、焼却炉から昇っていく煙とともに虚無の空に消えていった。
蓮華はまじまじと美代を見つめる。
(心から……泣いていらっしゃるの?)
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