第54話

東雲にも絡むように浮かび上がっていたあの‟色″と形状。ダンスホール‟カナリア″で目にした黒い茨が視界の端をかすめる。


「小鳥遊少佐……?」

「すまない、先に屯所に戻っていてくれ」


 人混みをかき分け、心の色の所有者を追う。


(あれは、まさか――)


 女だった。それも、面識のある女だ。


 一人、二人、視界が開かれるが、目当ての人物を見失った。通常、人の心がまったく同じ色、形をするはずはない。それが可能となるとすれば、何者かによって手が加えられている可能性が考えられるが。


 ……胸騒ぎがする。


(杞憂で済めばいいが)


 千桜はしばらく、女が消えていった先を冷徹に睨みつけた。


    *


 蓮華はその日、熱心に縫い物をしていた。手元には肌触りのよい麻の布がある。桃色の糸で丁寧に桜の刺繍をいれたところで、ほっと息をついた。


「まぁ! まぁまぁまぁまぁ! 綺麗なハンケチですね!」


 女中のはな子は、両手をあわせてまじまじと見つめてくる。あまり上手にできたとは言えない品であるため、蓮華は落ち着かずに肩をすぼめた。


「旦那様への贈り物でしょうか」

「は……はい。やはり、何か贈って差し上げたくて、無理を言って橘様に生地をこしらえてもらったのです」

「とっても素敵なお考えだと思います! きっとお喜びになられますよ」


 そうだろうか。そうだといい。


 蓮華はこれまで、癖のようにへりくだっていたが、最近では期待することを覚えた。これを渡したら、いったい千桜はどのような顔をするのか。どのような言葉をかけてくれるのか。ここまで脳裏に浮かんでは、勝手に胸があたたかくなる。


 千桜に借りた小説に、人と人の間にあるのは、エゴイズムでしかないとあった。そのエゴイズムをぶつけ合ってこそ、社会が成り立つ、と。舶来の言葉はすぐに理解できなかったため、蓮華は辞書を引いた。なるほど、たしかに、世界は己の主観で成り立っている。社会に溶け込むということは、己のエゴイズムを受け入れ、そして相手のエゴイズムを聞くことにある。


 蓮華はまた一つ、千桜の心に近づけた気がして、胸が安らかになる。


(いったい、旦那様ご自身の心の色は何色をされているのかしら)


 きっと鮮やかな桜色をしているのだろう、と蓮華はやわらかく口角を上げた。


「笑った……」

「え?」


 すると、突然はな子の仰天した声が聞こえる。完成したハンケチを膝の上に広げたまま、蓮華は首を傾げた。


「蓮華様が笑った……!」


 何故か、瞳に涙まで浮かべて蓮華の両手を握ってくる。蓮華は、ぱちぱちと瞬きをして呆然とするしかない。


 笑う、とはいったい。蓮華はただ千桜の面影を思い浮かべていただけで、まったく身に覚えがない。喜怒哀楽が顔に出やすいはな子とは違って、蓮華は感情を表現することが苦手だった。


「ああ、もう! お坊ちゃまに見ていただきたかった!」

「あ、あの……私、変な顔をしていたのでしょうか」

「いいえいいえ! とっても可愛らしかったのです。それはもう、世の男性を虜にするような、純白の笑みでした!」


 はな子が歓喜している中、蓮華は狼狽する。話が飛躍しすぎている気がする――と考えるのは、失礼だろうか。決して、そのような薔薇色な表情を浮かべていた自覚はない。


 だが思うに、最近は冷めきっていた心がよく浮つく。これはなんだろうと思っていた。これが、‟愛おしさ″なのか。これが、‟あいする″ということなのか。


 この気持ちを大切にしてもよいのだろうか。蓮華は膝に広げていたハンケチを手に取り、胸もとに抱き締める。


「この屋敷にいらっしゃった時は人形のようでしたのに……良い顔をされるようになりましたね」


 顔を上げると、優しい目をしたはな子がいる。


「来月、ついに祝言をあげられると聞きましたが、本当に楽しみでなりません」


 祝言。蓮華は言葉を復唱して、俯いた。とうとう正式に千桜の妻となるのだ。


 そのために教養を積み、淑女としての振る舞いも身に着けてきた。

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