第50話
「なんでもいい。好きなものを頼みなさい」
淡泊に口を開き、蓮華から見やすい向きにそれが置かれた。
「あの……こちらのお店には、よく来られるのでしょうか」
尋ねると、千桜が蓮華へと横目を向けてくる。
千桜がダンスホール‟カナリア‟のように派手な場所を嫌っているとは知っていた。その一方で、連れてきてもらったカフェの雰囲気は大衆的である。いずれにせよ賑やかな場所は苦手なのかと思っていたため、蓮華は意外だと思った。
「よく……というほどではないが、ここの飯は気に入っている」
「そう、なのですね」
基本的に千桜の昼食は弁当だ。夕食も蓮華とともに屋敷でとっている。となると、士官学校時代や、蓮華が嫁ぐ前などにはよくここで食べていたのだろうか。
「どうした?」
「い、いえ、申し訳ございません。なんだか、不思議に思ってしまって」
「不思議……とは?」
しきりに店内を見ている蓮華に千桜は問いかける。
「旦那様はもっと、なんといいますか、静かな場所を好む方なのかと……勝手に思っていたものですから」
「静かな場所、か」
「カフェという場ははじめて訪れましたが、とても親しみやすくて、和気あいあいとしていて、まるで……私のような者でも社会に溶け込めているような気持ちになりました」
隣の席に座っている女二人は、職業婦人であるようで、先ほどから新聞記事の話題で盛り上がっている。後方の席には民間会社の同僚陣のようであり、意見交換が白熱している。華族の社交場とはまた違った世界ではあったが、居心地の悪さは感じられなかった。
「本来社会というものは、この店のようにあるべきだと思っているんだがな」
千桜はステンドグラスを見つめると、小さくため息をつく。
「上も下もない。男も女も関係ない。どんな者にも、平等にうまい飯が提供される」
「……」
「そういった点で、この店は気に入っている」
蓮華は至極納得した。同時に何故か胸があたたかくなる。千桜が気に入っているカフェを知っただけだというのに、何故蓮華が満足感を抱いているのか。
胸をさすってみても分からない。ただ、千桜と精神的に近くなれた事実に、形容しがたい感情を得ているのはたしかだった。
「あの」
(こういう時は、なんといえばいいのかしら)
向かいあう千桜を見つめる。ぎゅっと唇を結び、勇気を振り絞った。
「……ありがとう、ございます」
これまでは、何をしていてもついてでてくる言葉は謝罪だった。自分がとった行動により、相手が迷惑をしたのではないかと思うからだ。考えるよりも前に謝罪の台詞を吐くことによって、保身したかったのだ。
千桜の前では弱い自分でいたくない。謝るのではなく、もっと他に言葉がある。
何より、"伝えたい"と思うようになった。伝えてもいいのだと思えるようになった。
少しずつ蓮華の意識が変わってゆく。
「はじめて、だな」
「え?」
「違ったらすまない。おまえが言葉で礼をいったのは、はじめてなような気がする」
蓮華は瞬きをして固まった。
「これからは、躊躇わずそうしてくれると嬉しい」
「……あ、あの……はい」
「好きなものを頼め。どの飯もうまいぞ」
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