第四章 闇と光
第47話
一
ダンスホール‟カナリア‟での一件があり、念には念を入れて、蓮華は極力外出を控えるようになった。
とはいえ、蓮華はもとよりほとんど屋敷の中で過ごしていたため、生活に大きな変化はなかったのだが。
朝は千桜と朝食をとり、日中は勉学や稽古事に励む。夕方になると、食事の支度を買って出るようになった。千桜が勤めから帰ると、玄関先まで迎えにゆく。そのまま夕食をともにし、時間があえば縁側で桜を眺める。
一時は謎の男の接近があり、得体の知れない不安を抱いたが、日常には何の変化もない。やはり、もう会うことはない。妙な胸騒ぎは杞憂だったのだ――と思うくらいには、小鳥遊家の生活に安らぎを抱いていた。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
「ああ、行ってくる」
玄関際で鞄を手渡すと、千桜の冷たい瞳が向けられる。
こうして千桜を送り出す瞬間に、蓮華は思うことがあった。今の生活は穏和で、それこそなんの不便もない。女中たちも蓮華に大層よくしてくれていて、身に余るほどだ。いつまでも続いてゆけばいいのに、と考えるのは烏滸がましいが、そう思うほどには安らかな日々がある。
(待っていることしか、できないのかしら)
あたたかな生活に安堵する一方で、日々国のために立派な勤めを果たす千桜に何かを返したいと思う。最近では、家令に無理をいって食事の支度を手伝わせてもらっているが、それだけでは足りないような気がする。
このような気持ちははじめてだった。誰かに、どうしようもなく捧げたくなるような感覚は。
「何か変わったことがあれば、すぐに周りの者に伝えるように」
「……はい」
「それから、花を生ける腕を上げたな。よければ、今度こそ私の部屋に飾らせてくれ」
蓮華の頬が沸騰したように熱くなる。胸がふわふわと浮かび上がるような感覚。これは、‟嬉しさ‟か。それとも‟恥ずかしさ‟か。
蓮華は返答に困り、こくこくと頷いた。
「お邪魔にならないとよいのですが……」
「そうやってすぐに謙遜をする癖は、簡単には治らないな」
千桜は眉を下げて小さく笑った。蓮華はつい、やわらかい千桜の表情を見つめてしまう。
千桜は帝国陸軍のそれも少佐ともあろう人だ。毎日国のために勤めを果たしている。それが義務であり、使命であり、千桜自身であるのだ。そうは分かっていても、時々、玄関先で見送るのに‟寂しさ″を抱く時がある。
傲慢だ。身の程知らずも甚だしい。
いつでも、どこでも、隣に並んでいたいという‟欲‟が生まれ、現在の己の立ち位置に悶々とする。このままではいけない。蓮華ももっと、自分の足で立てるように――と。
「何か足りないものがあれば、橘を使わせるように」
「……はい」
「訪ねてくる者があっても、おまえは応対しなくていい」
「…………はい」
返事をするごとに胸に重い鉛がぶら下がる。
(我儘だわ……こんなの)
千桜を送り出し、蓮華はしばらく玄関で呆けた。こんな自分を拾ってくれた千桜に迷惑をかけてはいけない。そう思う反面で、これまで抱きもしなかった私情がせめぎ合った。
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