第46話
男は高揚していた。蓮華の顔をよく見るように顎を引くと、うっとりと目を細めた。
(この方にあまり近づいてはいけない気がする)
どうにかせねばならない。だが、蓮華は護身術の知識もなく、巧みな話術でかいくぐることもままならない。
脳裏に浮かぶのは千桜の顔だ。冷たい目をした心優しい人。闇よりも光が似合う立派な人。いつしか蓮華は。千桜のために生きたいと思うほどには、そのまっすぐな志に強く惹かれるようになっていた。
「おやめ、ください」
「貴女は私と同じ。巴家は名のある華族ですし、私生児とはいえ、そう悪くはないでしょう。いいですねえ、私は貴女のことがもっと知りたくなった……」
ぶるりと背筋が震え上がる。
(この方は何処までご存知なの)
氏名だけでなく、出生の詳細まで知っているとはいったい何者なのか。
「……離して、ください」
「ふむ……」
蓮華はこれまで、己自身にはなんの関心もなかった。
殴られても、蹴られても、罵倒されても、どこか他人事のような感覚があった。靴を舐めろと命じられればその通りにした。土下座をしろと命じられればその通りにした。
そうしなければ生きて行けなかった。だから、己についての矜持のいっさいを捨てていた。
けれど今は、違う。
(このような私でも愛してくださる旦那様がいる)
千桜が向けてくれた気持ちに応えるための矜持だ。
怯えや不安を消し去り、まっすぐ男を見つめると、あっさりと指先が離れていった。
「……残念です。あなたの
蓮華はほっと肩を撫でおろす。男は両手を広げてわざとらしく肩を窄めた。
急ぐそぶりも見せず、持っていたステッキを優雅に振りながら闇の中へと歩みを進める。
「今夜はとてもよいものを見せていただきました。ええ、本当に」
「……あなたは、いったい」
「またどこかで会いましょう……蓮華の花の、お嬢さん」
*
蓮華は気の抜けたようにその場に立ち尽くす。
あたりには独特な香りを放つ薔薇園が広がっている。館内から聞こえたはずの華族の笑い声が、ようやく蓮華の鼓膜を揺らした。男の瞳に見つめられると体温が二、三度下がってゆく感覚があった。
あの男はいったい誰であるのか。
膝の力が入らず大きくふらついたが、地面に倒れることはなかった。すんでのところで肩を抱き寄せられ、蓮華は何者かの胸に躰を預ける。
「おい、どうした」
優しい桜の香りがする。
──千桜だ。
蓮華の視界には、冷たい右眼と鮮やかな桜色の左眼がある。緊張がどっとほぐれ、蓮華は思わず千桜の胸もとを掴んでしまった。
「顔色がよくない」
「旦那様……」
「――何が、あった?」
情けない。勝手な判断で千桜のそばを離れたことにより、かえって心配をかけてしまっている。
口にすべきか逡巡したが、千桜の目は有無を言わさないといった具合に鋭い。蓮華はゆっくりと唇を開き、一連の出来事を打ち明けることに決めた。
「いえ、あの……きっと気にするべきではないのかもしれないのですが、男性に……声をかけられました」
「男? どんな人相だったか覚えているか」
「とても、紳士的な振る舞いをされていらっしゃって……それから、黒い薔薇のブローチをつけて、いらっしゃいました」
蓮華が男の特徴を口にすると、千桜の目が鋭く細められた。
「黒い薔薇……だと……?」
蓮華はこくりと頷く。
「また、どこかで会いましょう……と。でも、私、その方と面識はないのです。誰であるのかも分からなくて、だから」
男の笑みには、底震えするほどの恐ろしさがあった。巴家の人間の、蓮華をあざ笑う笑みとも違う。もっと深い闇の香りがする不気味な笑みだった。
「くそ……何が狙いだ」
千桜は静かに苛立った。蓮華の肩を抱くと、自らが着ていた軍服を脱ぎ、羽織らせる。蓮華の躰は知らぬ間に冷え切っていた。
「すまない。やはり、一人にさせるべきではなかった」
「いいえ、私が勝手に出てきてしまったのが悪いのです。それに……あの方にも、もう会う機会もないでしょうから」
「……」
「それよりも、申し訳ございません。大切なお話し合いの妨げになったのではないでしょうか」
「いや、私のことは気にするな。聞くに堪えないくだらん話だったから、軽い牽制をして出てきたのだが──……それよりも」
小鳥遊家で過ごしている蓮華は、基本的に外出する機会は少ない。
夜会にも進んで参加しようとも思わないため、おそらくは杞憂に終わるだろう。
あの男の発言には身に覚えのない部分が多々あり、困惑した。"素晴らしい"などと褒め称えられるような価値が蓮華にあるとは思えなかった。
冷徹な目を向けてくる千桜を前にして、蓮華は己の浅はかさを猛省する。
「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
頭を下げると、頭上から深いため息が落とされた。
「杞憂で済めばよいのだが……あまり、よい予感がしないものでな」
さまざまな欲望が渦巻くダンスホール‟カナリア‟は今夜も眠らない。世俗から隠匿された場所で、ミツバチたちは背徳的に蜜を吸いあう。まるで悪意を持った何者かの手で創り上げられた理想郷のようだ。
千桜は自らの左眼を手で押さえる。とぐろまく黒い色。
メインホールでは、最近はよくそれと似た色を見かけるようになったが――。
「蓮華に何用だ……黒薔薇嶺二」
人間の心を見透かす桜色の瞳が疼いていた。
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