第45話
蓮華は肩を震わせ、周囲を見回す。すると、薔薇園の中から出てきた人物がいた。月光に照らされている蓮華とは対極的に、闇の影から現れ出た男。年齢は千桜より少し年配であるように思えたが、ここからではよく表情がうかがえない。
物腰柔らかな口調や、可憐な身のこなしから、華族の――それも家督の高い人物であるように感じた。
「……こんばんは、御機嫌よう」
蓮華はとっさにドレスに手を添えて礼をとる。
ゆっくりと顔を上げると、闇の中に立っている人物の顔が徐々に明らかになった。
と同時に、蓮華は猛烈な後悔の念に駆られる。読み書きや礼儀作法などの教養はかろうじて得ているが、華族の人間の情報はまったく頭に入れていなかった。
こうなることが予想できていたら、千桜に名簿を見せてもらうべきだった。どうしてそのような機転がきかないのか。すべて千桜任せにしている己が恥ずかしく思った。
男は息を飲むほどに美麗な容姿をしていた。だがそれは千桜とは違う美しさだ。光を通さぬ漆黒の瞳に、艶のある黒髪。意匠の燕尾服の胸もとには、黒い薔薇のブローチがついている。まるで西洋の人形のように完璧な外見だった。
「あの……」
(いったいどなたかしら)
名前が分からないなど無礼極まりない。かといってこの場から逃げ出すこともできず、蓮華は狼狽えた。
「ああ……なんと光栄な巡り合わせでしょう」
「光栄……?」
「巴蓮華様、あなたは、素晴らしい」
蓮華は目を見開き、愕然とした。まだ名乗ってもいない。
しかもよりによって‟巴″の性を知る者は、数えるほどだ。それなのにどうして氏名を把握しているのか。
男は目尻を細めると、一歩一歩蓮華のもとへと近づいてくる。
「どうかあの唄をもう一度お聴かせ願いたいものです」
「あ、あの」
「ここではお恥ずかしい? ふむ……そうですねえ。であれば、私のお部屋にでもお連れしましょう」
なぜ、恍惚とした表情を浮かべているのか。蓮華には理解ができなかった。
家督の高い華族の指示に背いてしまっては不敬に値する。本来であればたかだか唄くらい、見世物として披露すべきだろう。だが、蓮華の躰はそれを拒絶する。
「ひ、人を待っておりますので、遠慮させていただきたく存じます」
蓮華はとっさに俯いて、失礼を覚悟で断りを入れる。
蓮華は千桜にここで待っていると告げたのだ。約束は守らねばならない。
「貴女の未来の旦那様は只今、軍略会議の真っただ中でしょう? 貴賓室にこもって、それはもう大層な計画を練られていらっしゃる。お待ちになるのは些か退屈でしょう」
「……ど、どうしてそれを」
「それにここはダンスホール‟カナリア‟ですよ? 少しくらい羽目を外しても……よいのです」
手袋がはめられた細長い指が蓮華の顎へと伸びてくる。
(旦那様が上官殿とお話をされているなど、あの場に居合わせていた私くらいしか知らないはず)
本能が避けねばならないと告げているのに、躰が鉛のように動かない。男からは妖艶な薔薇の匂いがした。
「さあ、お話をいたしましょう。私のことが気になるのであれば、お部屋でじっくりお教えします」
「い、いえ、そんなつもりは」
「私、鳥肌が立ってしまって仕方がないのですよ。神の思し召し。いやはや、本当に素晴らしい……」
「あのっ……」
「そうか……そうですか、あなたが。ああ……そうでしょうとも。私たちは有象無象の屑どもとは違い、──……選ばれし人間なのです」
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