第44話

(こんな時に、いったいどのように声をかけたらよいの)


 どこか――様子が可笑しい。この社交場が嫌になったのかもしれないが、たとえ幼子ではあるとしても、異常な泣き方をしている。


 蓮華でもそれは理解できた。


 放っておけば良くない気がするのに、蓮華は己の無能さに打ちひしがれる。


 おそらくは千桜であれば、息を吐くように宥め聞かせるのだろう。


 なんと自分は非力なのだ。社交の場でも役に立たず、用事が済むのを待っていることしかできない。極めつけには、泣いている子どもをあやすのもままならないとは。


 蓮華の表情に靄がかかった。


 何か、何かないものか――と思考を巡らし、一つだけ脳裏によぎる。


 気休めにもならないかもしれないが、蓮華にできることはそれくらいであったのだ。


「――眠れぬ子よ、ねんねんころり」


 口ずさむと、亡きの母親の面影が浮かんだ。思えば、千桜とはじめて出会った時もこの子守唄を歌っていた。


「おはなのかおりで、ねんねんこ」


 瞳を閉じ、一面の花畑を想像する。野原を淡い桃色に染める蓮華の花。ちょうど今頃が見どころなのだと母親は言っていた。桜の花が終わり、暖かくなってきた頃。藤の花が咲き始めると蓮華の花も咲くのだと。


 ふわり、風が吹き付ける。


 ほんのりと甘く優しい花の香りがする。


 目を閉じて想像しているだけであるのに、不思議だ。ただ、女児の心が安らいでほしい一心で唄を口にする。ゆっくりと瞼を上げると、冷静さを取り戻し、ぽかんと口を開けている女児と目があった。


「――……すっ……ごい」

「え?」


 女児が泣き止み、ほっとしたのも束の間、蓮華は再び狼狽した。


「なんかね、お花がぶわぁっ……って! 今の、どうやったの……?」

「お花? あ、あの、それよりも」

「すっごく綺麗だった……もう一回やって!」


 何がどうなっているのか。蓮華はただ母親から教えてもらった子守唄を歌っただけだ。身に覚えのない要求になんと返すべきか逡巡する。


「ごめんなさい。あの、その」


 もう一回とは、具体的にどのようにすればよいのだろう。狼狽えていると女児は首を傾げる。先ほどまで取り乱して泣いていたとは思えないほどに、けろりとしている。


「んー……なんだあ、夢でも見てたのかなぁ……?」


 蓮華はまったくもって状況がつかめずにいたが、ひとまずは女児の表情が明るくなり安堵した。


「ご気分はいかがでしょうか?」


 怪我などはしていないか。ドレスについた土を払ってやると、少女は再びぽかんとした表情をする。


「あれ……? そういえば、なんだかすっごく悲しかったような……」

「悲しかったような?」

「すっごく暗い気持ちになって、何もかも嫌になって……でも、あれ? なんでだったんだっけ……」


 女児は、自分の中で答えが見いだせずに眉をひそめている。蓮華もまた胸に得体の知れぬしこりが残った。


(どうして覚えていないのかしら)


 泣き喚いていた時と今の表情が、まるで別人のようにも思える。これでよかったのか。たかだか子守唄ではあったが、気が紛れたのであれば甲斐があったというものだ。土を払って立ち上がった女児は、きょろきょろと周囲を見回す。


「そういえば、なんでこんなところに」

「え……?」

「お母様とお父様と一緒に、綺麗なお部屋の中でクッキーを食べてたの。なのに、なんでお外にいるんだろう……うーん」


 女児の発言は先ほどから現実味を帯びていない。信じがたい内容ではあるが、女児が嘘をついているようにも思えなかった。


 千桜がこの場にいたのなら、適格な判断を下せたのだろう。このあとになんと問いかければよいのかと悩まずに済むのだろう。


「……あ、お母様とお父様だ!」


 すると、女児の表情がぱああと明るくなった。蓮華のもとを立ち去る小さな背中をぼんやりと見つめる。


 女児には、父と母がいる。帰る場所がある。蓮華にも実父はいるが、絶縁されているも同然であり、義母には疎まれている。実母は自決をしていたため、すがる場所などなかった。


 ――これが、羨ましいという感情か。


 蓮華の頭上に月光が差し込んだ、刹那のこと。


「こんばんは――麗しいお嬢さん」


 もう誰もいないはずの庭園で、静かな声が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る