第43話

混沌とする館内から抜け出し、蓮華は静かな庭園で一人月を見上げる。


 賑やかな笑い声が館内から聞こえてくる。

 同じ敷地内ではあるが、人気のない静かなこの場は幾分息がしやすいような気がした。


(旦那様にあとで叱られてしまうかしら)


 千桜の了承を得ずに飛び出してしまったが、今思えば早計だったかもしれない。ああやって姉たちと遭遇して、千桜の株を下げるような真似をしてしまった。


 蓮華は月を見上げながら、鬱々とする。


 何をどうするのが正解だったのだろう。蓮華はただ、千桜の足手まといになりたくない一心だったのだ。毅然とした態度でいられればどんなによかったか。蓮華は未だ、自分自身を蔑まずにはいられない。


 ふと右手を見ると、大きな木があった。既視感があると思ったが、おそらくはあの日見た桜の木だろう。小鳥遊家の中庭に咲く狂い咲きの桜とは違い、青々とした葉っぱをつけている。蓮華はふと心寂しい気持ちになった。


(可笑しいわ。今まではちっともそうは思わなかったのに)


 常に小鳥遊家で親切な人たちに囲まれているからだ。だから、今までの感覚を忘れてしまっていた。これでよいのだ。よかったのだ。政治の知識もない蓮華があの場にいても邪魔なだけ。せめて、迷惑にならないように振舞わねば。


 蓮華が夜闇の中で一人俯いた――その時のこと。


「うううっ……ひっく、ひっく」


 子どもがすすり泣く声が聞こえる。


 蓮華はふと気になり、辺りをしきりに見回した。迷宮のごとく入り組んでいる薔薇園を進み、声の出どころを探す。


 オリーブの高木が生えている温室の前で、子どもがうずくまっている。髪の長さやドレスを着用しているあたり、女児であるとうかがえた。


「あ、あの、いかがされたのでしょうか」


 いきなり声をかけても驚かせてしまうかもしれない。ましてや、己のような陰気な女だ。


 安堵させるつもりがかえって余計な不安を招きかねない。そう思ったのだが、ほぼ無意識に声をかけてしまった。


 女児は目元を擦って、顔を上げる。


「ごめん、なさいっ……! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」


 だが、蓮華の顔を見るなり、顔を真っ青にして震えあがった。


 がくがくと足をすくませて尻もちをついている。


 せっかくのドレスに土がついて汚れてしまっている。予想もしていない反応を前にして、蓮華は狼狽した。


 なんと声をかけるべきか。いや、この子はそれを望んではいないのかもしれない。


 この時、蓮華は自身の対人能力が著しく低いことを実感した。


 おろおろしていると、女児は大粒の涙を流して再び泣き出してしまう。


「うああっ、おうちに、かえらなきゃ! できない子だから、できない子なんだ。できない子は、かえらなきゃ!」

「えっと、あの」

「苦しい、かなしい! かなしいっ、かなしいかなしい、うっ、あっ、うううっ、あぁぁぁ!」


 おそらくは華族の令嬢なのだろう。


 どうしてここまで取り乱して泣いているのかは分からなかったが、あまりに冷静さを失っている。


 このあたりには葉が尖っている木々が生えているため、万が一肌を引っ搔いてしまったら一大事だ。放っておくのはよくないと考え、さめざめと泣いている女児の前に咄嗟に腰を下ろす。

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