第42話
三
メインフロアを飛び出すと、周囲の視線は蓮華へと降り注いだ。
それらは決して心地よいものばかりではなく、蓮華の胸にちくちくと突き刺さるような好奇や嫉妬も混ざっている。
一人で勝手に抜け出してしまった手前、今、蓮華の隣には千桜がいない。
いったいどれほど自分が守られていたのかを実感して、途端に心細くなった。
(しっかりしなくてはならないのに、なんて情けないのかしら)
庭園へと向かうために身を翻した時のことだ。
「あらぁ、誰かと思えば」
「あらあらまあまあ」
通りかかった女二人に声をかけられる。俯いていた顔を上げて、蓮華はハッと肩を震わせる。
声をかけてきたのは、姉である千代と喜代だった。
蓮華は顔面蒼白になり、衝撃のあまりその場で棒立ちになった。巴家で受けてきた仕打ちや、社交場で見せ物にされた記憶が蘇る。また、あの時のような扱いを受けるのかもしれないという考えが脳裏によぎった。
千代と喜代は蓮華の身なりをじろりと一瞥する。
千桜には胸を張れと言われたが、どうにも難しい。蓮華は、誇れるほどにはまだ何も成し遂げられていないからだ。
「馬子にも衣装とはまさにこのことかしら。ねえ、お姉さま?」
「そうね喜代さん。小鳥遊様に仕立てていただいたのかしら。まぁ羨ましいこと」
やだやだ、と扇子で口もとを隠す千代と喜代。
蓮華は俯いたまま黙り込んだ。
「随分と小綺麗にしていただいているのね」
「うちにいた時は、溝鼠のように汚らしかったのに。ねえ、お姉さま?」
「だめよ喜代さん。この方はなんといっても小鳥遊様の奥様になられるんですもの。失礼なことは言えないわ」
「あらあら、ごめんなさいお姉さま」
口では謙遜をしているものの、態度は相変わらず刺々しい。
名家である小鳥遊家の当主千桜が相手ともなると、迂闊な発言は控えなければならない。千代と喜代は互いに顔を見合わせながら、わざとらしい謙遜をする。
だが、蓮華を見る目には嫌悪感が浮かんでいるのだ。妬み、嫉み、蔑み。蓮華は千桜のように心の色を可視できないが、目の前の二人が何を思っているのかは手に取るように分かった。
「突然の縁談ですもの。嫁ぎ先で奴隷のように扱われていないか心配していたのに、ぴんぴんしているじゃない」
「そうねお姉さま。見る限りでは、小鳥遊邸でさぞ良い暮らしをさせてもらっているみたいですわよ」
「なんの芸も持ち合わせていない出来損ないだったのに、おかしいわねぇ。いったいどんなご奉仕をしていたのかしら?」
千代と喜代の金切り声がよく響いた。クスクスと嘲笑ってくる姉たちを前にして、蓮華は弾かれたようにはっと顔を上げる。
奉仕などしていない。千桜のような公明正大な男がそんなものを求めたりしない。
自分のことをどう言われようが何も響かなかったが、千代の軽薄な発言に何故かちくりと胸に違和感が残った。
「……違います」
「え? なによ」
「奉仕などしていませんし、旦那様はそのような下劣な行為を求めたりいたしません」
これまでに一度だって千代と喜代に言い返したことはなかった。暴言も侮辱も、蓮華はなんだって受け入れた。
だが、それが千桜にまで及ぶというのなら黙ってはいられなかったのだ。
「急に食い下がってきて、どうしたのかしら」
「そ、そうよねえ、お姉様?」
姉たちは顔を見合わせ、不快そうに眉を顰めた。
「ふうん……へえ、そう」
「小鳥遊家相手に私たちが迂闊に手出しできないからって、随分と調子にのっているじゃないの」
違う。そうではない。決して調子にのっているわけではない。ただ蓮華は、千桜までもが侮辱されているようで我慢ならなかっただけだ。
「お前はもうすっかり華族気分でいるようね。余計にお母様が不憫でならないわ」
「最近はお元気がないものねえ。私たちの縁談はまるで上手くいかないし、どうしてお前だけ……と思わずにはいられないけれど」
ふん、と鼻を鳴らすと、蓮華の脇を通り過ぎる。
「せいぜい勘違いしながら生きることね」
「ごめん遊ばせ? 溝鼠のお姫様」
黙り込む蓮華の背後から、クスクスと嘲り笑う声が聞こえてきたが、今の蓮華には気にしている余裕はない。
(とにかく今は、はやく外に)
蓮華は人目を避けるようにして、庭園へと駆けていった。
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