第41話

「で? どこの家の御令嬢なんだ。社交場では見かけない顔だ――と、下の連中が騒ぎ立てている」


 蓮華はぶるりと肩を震わせた。まさか、巴藤三郎の私生児であるとは口が裂けても伝えられない。


 ふと思い立って蓮華は周囲を見渡す。この場に姉たちはいないだろうか。


 ましてや義母の姿があれば、思わぬ混乱を招くやもしれない。小鳥遊家との関係性も考慮し、一族の汚点を自ら公に晒しはしないだろうが、感情的になり、攻撃的な言葉を向けてくる可能性は重々にある。


 メインホールを見渡したが、それらしき姿はなかった。


「いかにも純粋無垢な御令嬢のようだが。ついに貴様も、自分好みに女を仕込む趣向に目覚めたか?」

「……ご冗談を」


 東雲は含みを込めた笑みを浮かべる。千桜は煽りに乗じることなく、きわめて冷淡に対処した。


「まあいい。貴様の軍略は上が評価している。その無粋な態度も多めに見てやらんでもないが、あまり俺の気を立たせるなよ」


 声を凄める東雲に対し、やはり千桜は微動だにしない。上官に向ける視線にしては冷ややかだ。いったい千桜の左眼には何が映っているのかと蓮華は思った。


「佐山と工藤が貴賓室に控えている。帝国陸軍の方針について議論をしていたところなのだが、ちょうどいい。貴様の面を貸せ」


 東雲が言い捨てると、千桜はわずかに眉尻を上げた。軍人の密談に女である蓮華が立ち入るわけにはいかない。このままでは、蓮華がいるがために、重要な誘いを断らせることになる。


 やはり、千桜の足手まといになっているのではないか。


「申し訳な――」

「あの、私のことならどうかお気になさらないでください」


 ついに我慢ならず、蓮華は口を挟んでしまった。用事が済むまで待つことくらい、子どもにだってできる。命じられれば一人で帰宅もできる。千桜の心証を悪くさせるのは忍びなかった。


「ご迷惑でなければ、外の庭園にてお待ちしております」

「だが」

「ご心配には及びません」


 館内で一人でいるには心細いが、閑散としている庭園であればそう問題はないだろう。また、一人でぼんやりするのには慣れている。時間を気にせず議論をしてもらってかまわなかったのだが、千桜の表情は重々しい。


「あの、では……私はこれで」

「おい――!」





 蓮華は居たたまれなくなり、逃げるようにその場を立ち去った。

 すかさず追いかけようとする千桜を、東雲が淡泊に制する。


「案ずるな。彼女には、信用に足る護衛をつけてやろう」


 東雲陸軍中将。この男の甘言はまったくもって信用ができない、と千桜は心の中で舌打ちをする。


 上官であろうが、この男は敬意を払うべき人間ではない。


 千桜は鋭く目を細めた。くだらない欲望のために、軍部を意のままにしようと企んでいる人間――それが東雲だ。


(最近では政治的支持を得るため、東雲は社交場によく顔を出しているようだが)


 左眼に映る心の色は見るに堪えないほどに濁っている。毒蛇のような黒い靄が東雲から伸びていた。


(この男も……か)


 千桜は、この独特な色をもつ心の靄に既視感を得た。それも右翼的思考をもつ人間によくみられる色だ。人格すらを飲み込むほどの黒が、全身に絡みついている。


 今となっては、東雲の顔立ちすらろくに判別できぬほどであった。本来、人の心の色は十人十色であり、同じ喜怒哀楽であっても出る色はさまざまだ。だが、ここまで似通っているとなると、人の手が加えられていると想像するに容易い。

 やはりこの‟カナリア‟がきな臭いか。


(‟護衛‟とは随分と体のいい。‟人質‟にとらせてもらった……と言っているようなものだ)


 東雲は貴賓室へと向かって歩みを進める。いうことを聞かねばどうなるか。


 つくづく卑怯な男だ――。

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