第40話

「用事は大方、今済ませている」

「え……?」

「おまえという存在を皆に周知させることと、このくだらん夜会の偵察だ」


 二階席はメインホールを良く見渡せる。また逆も然りであり、メインホールで談笑を楽しんでいたはずの華族たちはしきりに千桜の目を気にしているようだった。


「私は、おまえを隠しておくつもりはない」

「……旦那様」

「薄汚れた連中のために、後ろめたさを抱きながら生きていてほしくはないのだ」


 上質なワルツの生演奏がやけに耳にまとわりつく。


 ちらちらと向けられる無数の視線。歪曲した感情。一般庶民などは決して手が届かない天井の世界ではあるが、何故か息が詰まる。ここにあるのは、純粋無垢な感情ではない。それくらいは蓮華でも理解できた。


 何故、うまく立ち振る舞えないのだろう。


 不安や恐れなど消し去るべきなのに。蓮華は千桜を思えば思うほどに、己の力では制御できぬ感情に支配されてしまう。


「偉そうにしていろ、というのではない。人間として生きるうえでの最低限の矜持の話だ」

「……はい」

「だが、すまないな。このような場はうんざりするだろう。長居をするつもりはないから、しばし辛抱してくれ」


 そう言って、冷たい視線をメインホールへと向ける。中央では優雅にダンスを踊っている紳士淑女たちがある。


 ばらばらと散っている者は、おのおの酒を愉しんでいるようだった。


(何か、何か――。お役に立たねば)


 そっと左眼に手を添える千桜を見やる。やはり気分が優れないのだろうと思い、立ち上がった。


「今、何か飲み物をいただいて参ります」


 水がよいだろう。給仕に声をかけるために出向こうとしたが、すんでで千桜に止められた。


「――いい」

「ですが」

「ここで提供されるものは、あまり信用できない」


 蓮華には言葉の意味が分からなかった。


「おまえのそばを離れるつもりはないが、万が一、誰から勧められても一切口にするな」


 蓮華はこくりと頷き、椅子に腰かける。


 そうとは知らずに余計な行動をとってしまった。

 ──だがしかし、飲み物や食べ物が信用できないとはどういう意味なのか。


 メインホールでは、紳士淑女が優雅に酒を酌み交わしているではないか。ここは帝都随一のダンスホール‟カナリア″。

 誰もが憧れるはずの社交場で、ただの水でさえも信用できぬとは、いったい――。


 それきり千桜は口を閉ざし、詳細を説明しようとはしなかった。

 千桜が話さない内容を、蓮華が無理に聞く必要はないのだろう。



 とくに会話もないまま席に座っていると、蓮華と千桜のもとに歩み寄る者がいた。


「普段見かけぬ顔があると思えば、小鳥遊ではないか」


 千桜と同じ軍服を着た男。


 吊り上がった眉尻に、力強い眼光。野太い声は、いくつもの死線を潜り抜けてきたと言わんばかりの貫禄がある。襟章を見るに、階級が相当に高い人物であると伺えた。


「……東雲陸軍中将、ご無沙汰しております」


 千桜は一切の無駄を感じさせない身のこなしで礼をとる。中将となれば、格上の存在だ。だが、千桜の目に敬意の色は浮かばない。そればかりか、冷淡に目を細めている。


「貴様のような社交嫌いが珍しい」

「軍人たるもの、自制すべきかと。あまりに夜会にうつつを抜かすようでは、部下に示しがつきませんでしょう」

「ふん。相変わらず固い男だ。……それで、そちらの御令嬢は?」


 東雲の視線が蓮華に向けられる。蓮華は慌てて立ち上がり、頭を下げる。東雲は、蓮華の頭のてっぺんから足の先まで品を定めるがごとく吟味する。


「俺はてっきり貴様は男に興味があるのかと思っていたが。なるほど……」


 東雲は、蓮華の顔をよく見ようと距離を詰めてくる。千桜はそっと蓮華の前に出ると、冷ややかに瞼を伏せた。


「彼女は私の妻となる女性です。本日は、そのご挨拶もかねて参りました」

「ほう……鉄のような男である貴様が、妻を?」

「私が妻を娶ると何か問題でも? それから、彼女は社交の場に慣れていないもので、どうかそっとしてはいただけないでしょうか」


 中将というと、千桜の上官に当たる人間だ。将来千桜の妻となる身として、一言挨拶をせねば失礼ではないのか。だが、千桜の背中はその必要はないと語っている。蓮華は困惑しつつも、余計な真似はせぬように押し黙った。


「不躾だな。貴様の態度はつくづく気に食わん」


 声を鋭くする東雲を前にしても、千桜の毅然とした態度に変化はない。

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