第38話
「慣れない場に連れ出す形となり申し訳ないが、あまり案ずることもないだろう。ここ数日はより一層、稽古事に励んでいたそうだし、立ち振る舞いも、身のこなしも、およそ淑女のそれと等しいと思える」
とはいえ、蓮華には終始自信がなかった。
華族が集まるダンスホール‟カナリア″で、千桜の面子を潰さぬような振る舞いができるものなのか、と。
もともと下女として働いていた蓮華には、教養の欠片も蓄積されていない。
小鳥遊家で生活するようになってから、かろうじて身に付いただけのこと。専門的な質問が飛び交ったのなら、間違いなく蓮華はついてゆけないだろう。
それだけでなく、義母や姉たちと対面をした時に、なんと罵倒されるものか。蓮華のせいで千桜の評価が下がることだけは避けたかった。
「まあ……あの場では誰の声にも、耳を貸さなくていい。いちいち聞いていては耳が腐るというものだ。私の隣で、ただ凛としていなさい」
「……耳を貸さない?」
聞き返せば、千桜が横目を向ける。ただ隣にいるだけで本当によいのだろうか。そんなはずはない。蓮華の中で問答を繰り返した。
「旦那様に、ご無理はないのでしょうか?」
「私がか?」
「はい。その……あまりにたくさんのものが見えすぎると、ご気分を悪くされるかと」
千桜は夜会を好まない。単に華族の付き合いに嫌気がさしているだけではなく、心の色が映るという左眼の影響も大きい。
そのような状態であるのに、無理をして赴く必要はないだろう……というのは、浅はかすぎるか。名のある華族の当主、そして帝国陸軍の少佐としての立場も重々にある。蓮華には真似できないことだ。
「そんなもの、これまでにうんざりするほど見てきているからな」
「ですが……」
「おまえもあまり良い気はしないと思うが、とにかく、今夜は胸を張っていろ。何も恥じる必要はない」
そんな千桜の隣に並ぶことは、どんな意味をなすのか。蓮華は、ごくりと生唾をのんだ。
華族の中でも圧倒的な立場を誇る小鳥遊家の当主。帝都大学を首席で卒業し、士官学校で抜きんでた結果を残し、二十六歳という若さで陸軍少佐の地位を確立する。他人を寄せ付けぬ冷徹さ。舞い込む縁談もことごとく断っていたはずの千桜が、婚約者を連れている――。
‟恥じる必要はない‟
そういわれても、蓮華の胸に不安は居座る。
千桜に相応しくない人間だと思われてしまったら、立つ瀬がなくなってしまうのだ。
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