第37話


 土曜日の夜二十時を回った頃、蓮華は姿鏡の前に立ち、しきりにそわそわしていた。


「に、似合っていないのではないでしょうか」

「そんなことはございませんって! とてもお綺麗ですよぉ~!」


 蓮華の訴えを、はな子はおおざっぱに笑いとばした。笑いごとではない。蓮華にとっては死活問題であったが、はな子は楽天的であった。背後から姿鏡をのぞき込むと、きゃっきゃとはしゃいで両手を合わせている。


 蓮華は鬱々とした気持ちで姿鏡へと視線を向けた。肩回りがざっくりと開いている紅色のドレス。


 後ろで一つにまとめられている髪。はな子に施してもらった化粧。普段はこのような恰好をしない蓮華にとって違和感でしかなかった。


「で、でも、せめてもう少し首回りがつまったものなど……」

「何をおっしゃっているんですか! 今はそのくらい大胆なドレスが流行りなんです」

「あ、あの、ですが旦那様はきっと、あまりこういうものはお好きでないのでは……」


 だからといって、ダンスホール‟カナリア″に時代遅れな着物姿で向かうわけにはいかない。


 千桜の指示があり、家令とはな子が業者を呼びつけ、ドレスの採寸を行ったところまではよかった。デザインを決める段階で、とくに希望がなかった蓮華はそれに混ざらず、家令とはな子に一任をしたのだ。


 仕上がったドレスは極上だった。だが、蓮華からすると華やかすぎる。


 肩もとが落ち着かず、空気が直接肌に触れてそわそわする。化粧も似合っていない気がする。


 髪が後ろでまとめられているせいで、みすぼらしい顔を隠せない。


 はやく支度を済ませなければ。


 千桜を待たせてしまっている。


 そう思いつつも、部屋から一歩も出られない。巴家で下女をしていた頃は波音ひとつ立てなかった蓮華の心。


 これは何の音か。心の臓が大きく打ち立てて、息が苦しい。


「きっとお喜びになります! むしろ、今の蓮華様をお嫌いだと思われる男性などいないですって!」

「で、でも」

「大丈夫大丈夫! ほら、お坊ちゃまにお披露目しましょう!」


 蓮華はあれよあれよと背中を押され、部屋の外へと連れ出された。千桜の私室の前に立つと、はな子の快活な声が響く。


「お坊ちゃま、蓮華様のご準備が整いましたよ」


 蓮華はその一声にひどく動揺した。とっさに俯き、床を見つめる。


 襖が開く音が聞こえると、蓮華の胸の音は最高潮に高鳴った。


 おそるおそる顔を上げる。真っ先に飛び込んできたのは冷たい氷のごとき瞳だ。左側に流れている前髪。


 後ろで一つにまとめられた糸のような髪。社会的威厳を示す軍服。千桜の姿をしっかりととらえると、静かに視線が絡み合った。


「あ、あの」


 蓮華ははくはくと口を開け閉めし、千桜の反応を待つ。やはり、似合っていないのではないか。切れ長の目を細めたまま、千桜は微動だにしない。


「お坊ちゃま、何か言って差し上げたらどうなんです?」

「……あ、ああ」


 ともすれば、千桜ははな子の問いかけにハッとした。軽く咳払いをしたのち、言いにくそうに視線を逸らす。


「綺麗だ。その……よく似合っている」


 蓮華は生きた心地がしなかった。先ほどまで不安で押しつぶされそうになっていたのに、今度は一転して、沸騰したように躰が熱くなる。どうしたものか。風邪などひいていないのに。


「本当でございますか? み、見苦しくはないでしょうか?」

「そのようなことはない」


 しばらく沈黙が流れる。はな子はクスクスと笑って、少し離れた場所から見守った。

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