第36話

午前は訓練がある。午後には飛行場への視察を控えている。


 その合間をぬって、一連の不審死に関する事件を調べる日々。千桜には、この一連の事件が華族社会の腐敗によるものだと思えてならないのだ。


 人間の傲慢さが生んだ怪物がどこかに潜んでいる。


 国家を操りたいなどという野望が絡んでいる気配はなく、そこにあるのは単なる快楽の一種であると推測する。くだらない階級制度などがあるから、思いあがる輩が出てくるのだ。


 すべてを掌握した気分になっているつもりか。


 そういった人間の心の色は、見るに堪えないほどにどす黒く汚れている。


 黒薔薇伯爵の色はいったいどのような色をしているものか。考えずとも想像に容易い。おそらくは、救いようもないほどの漆黒に染まっているのだろう。


 


    *




「こんばんは、ご婦人。今夜はいい夜ですねえ」


 満月が雲から顔を出す。帝都で眩い光を放つダンスホール‟カナリア″で、男は女に声をかけた。バルコニーでワイングラスを持ったまま、女は振り返る。


「まあ……これはこれは――!」

「何やら思いつめたご様子だったもので、つい声をかけてしまいました」


 男は闇の中から姿を現すと、うやうやしく頭を下げる。


 女は苛立っていた。


 愛娘たちの縁談が思うように進まず、亭主には己の発言を軽んじられ、まったくもって矜持が満たされずにいたのだ。


 いや、そもそもの発端はそれではない。納得ができない。許せない。受け入れがたい。もとはといえば――とそこまで考えかけたが、男の姿を視界に入れた瞬間に、女の瞳にはたちまち歓喜の色が宿った。


 ダンスホール‟カナリア″は眠らない。


 単なる上流階級の社交場という意味合いだけでなく、財政界の要人たちの議論の場となることもあれば、帝大の学生向けのサロンが開催されることもある。また、時として他人に打ち明けられぬ秘密の会合の場としても使用された。


 今夜もまた、上質なワルツの中にいびつな思惑が渦巻いている。


「このような素敵な場所で、なんとお見苦しいところを……大変申し訳ございません」

「そのようなことはないのですが、少し心配だったもので。あなたはたしか……巴藤三郎氏の奥様であられますね?」


 男が尋ねると、女はぴんと背筋を伸ばす。カールしている前髪をしきりに整え、落ち着かない様子だった。


「はい、巴藤三郎の妻、美代でございます」


 女は――美代は、ワイングラスをテーブルに置いて男と向き合った。男は目尻をゆっくりと下げると、心の隙間に入り込むがごとく優しく囁きかけた。


「藤三郎氏には、日頃よりよくしていただいております」

「まあ……」

「ですから、その奥方がため息をつかれているなんて、心が痛んでしまいますねえ」


 満月が浮かぶバルコニー。影の中に立つ男の瞳が怪しく光る。重厚感のある演奏が怪奇な空間を作り上げた。ゆらり、ゆらり、足元にひそむのは、暗闇だ。


「何かお悩みごとでも……? よろしければ、私がお聞きいたしますよ?」


 男の目が三日月型に――ゆがんだ。

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