第35話
*
千桜が常駐する屯所は、その日人の往来がいつになく多かった。
「小鳥遊少佐、おはようございます。本日の朝刊はすでにご覧になられましたでしょうか!」
千桜の執務室の中で直立している男は、山川二等兵である。角刈りの頭と太い眉が目立つ、千桜の忠実な部下だ。
千桜は氷のような瞳を一度だけ向け、「ああ」とひとつ返事をする。
「またしても、総理大臣指示派の議員が不審死を遂げたとのことです!」
「今月で二人目か……」
「はい……。それから、この頃は軍上層部でも右翼的発言が目立つようであります」
「上の言い分には呆れ切らしているところだ。このままゆけば、意味のない戦争が起こる」
朝刊には、総理大臣指示派閥に属している衆議院議員が自宅で何者かに殺害された内容が記されている。
ここ最近ではとくに、財政会の要人の──衆議院議員の不審死が相次いでいる。
そのどれもが民主主義的意見を掲げる者ばかりであり、千桜は裏で糸を引いている人間がいるのではないかと踏んでいた。
明治憲法下の日の本において、帝国議会を構成する上院に貴族院が設定されている。
貴族院は、貴族院令に基づき、皇族議員、華族議員及び勅任議員で構成されていて、解散がない。
任期七年の者と終身任期の者がいるが、下院にあたる衆議院とは同格の関係にあり、且つ、予算決議権は衆議院にあった。
最終的な議決決定権は衆議院にあることから、かろうじて民主主義が保たれているといえていたが、ここにきてその天秤が大きく傾きかけている現状がある。
相次ぐ衆議院議員――それも総理大臣指示派閥の不審死には、何か裏がある。とくに不夜城ともされるダンスホール‟カナリア‟がきな臭い。
「衆議院議員の佐藤氏についてですが、不審死を遂げる一週間前に‟カナリア‟に出入りをしていたようであります」
「そうか。やはりか……」
「近頃ではサロンが流行っておりますし、意見交換をするどさくさに紛れて接触があったのでしょうな……」
千桜は朝刊を広げ、鋭い視線を向ける。
(まったくもって趣味が悪いな)
推理小説の黒幕にでもなったつもりか。不審死を遂げた現場には共通して一凛の黒薔薇が置かれている。
まるで、自分を探し出してみろと言わんばかりの自己主張だ。このようなもの、軍人である千桜が追いかける必要もないのだろうが、近頃の帝都警察が全く機能していないのだ。新聞で総理大臣指示派の不審死が報じられようと、一線引いている。捜査の手をあからさまに緩めている。
ついに警察の上層部まで腐ったか――と千桜は大きなため息をついた。
「どうにかして貴賓室に潜りこめたらよいのだが。軍人は警戒されるのも当然か」
千桜の左眼の仕様上、ダンスホール‟カナリア″に長時間滞在するとひどい頭痛に見舞われる。さまざまな思惑、裏切り、劣情、欲望が渦巻いている社交場に適していないと自覚していながらも、野放しにはできぬ状況がある。
であるから、千桜は時々、なんの前触れもなく夜会に顔を出すようにしているのだ。
「少佐のお姿があると、あたりに緊張感が走るのでしょうな」
「どうだか。……それにしても、なかなかしっぽを出さない」
「思うに、やはりあの‟黒薔薇伯爵″が一枚嚙んでいるのでしょうか」
‟黒薔薇伯爵‟。本名は
華族でありながらも、国会議員や軍人の道を進んでいない。
貿易会社を数多経営する傍ら、趣味の一環でダンスホール‟カナリア″の運営をしている。貴族院議員ではないものの、経済的政治的な発言力は高い。最近では一部の議員からの賄賂疑惑が浮上しているほどだ。
「だろうな。だが、奴はなかなか表舞台に姿を現さん」
「食えない男ですね」
「派手な演出が好きなようだが、その分警戒心も強いのだろう」
執務机の上に新聞を置き、千桜は再びため息をついた。
「自分の方でも、引き続き調査を進めてゆく所存でございます!」
「ああ、すまないな。くれぐれも気をつけるように」
山川は敬礼をすると、執務室から出ていく。山川を一瞥をして、千桜は椅子から立ち上がった。
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