第三章 欲望と悪意

第34話


「夜会……でしょうか」


 朝餉の時間帯。蓮華は、膳を挟み、向かいに座っている千桜を見つめる。千桜は毎朝飲んでいる白湯を畳の上に置くと、重々しくため息をついた。


「今週の土曜に‟カナリア″にて開催されるようだ」


 今日の朝餉は、大根と豆腐の味噌汁と、さばの煮つけ。漬物、白米。蓮華は何度も炊事の手伝いを申し出たが、ことごとく却下されてしまった。ゆえに朝は手持無沙汰になる時が多々ある。


 しかし、よくよく考える。


 蓮華が炊事を担当したとして、普段と比べて味が落ちてしまうのではないか。ならば、粗末な料理を千桜に口にしてもらうのは忍びない。このままおとなしくしておくべきだ。


 だが、もし。万が一、蓮華が作ったものを喜んで口にしてくれたら……とそこまで考えて、蓮華は慌てて頭を振った。


「本当に、私も参加してしまってよろしいのでしょうか?」


 蓮華は持っていた箸を置き、ぴんと姿勢を正す。


「ああ。すまないな、あまり気は乗らないだろうが」

「い……いえ、旦那様さえよろしければ、私は……」


 千桜から切り出された話は、思ってもみない内容だった。

 上流階級の社交場である、ダンスホール‟カナリア″の夜会に蓮華もついてきてほしいというものだ。




 千桜は社交場を好ましく思っていないが、帝国陸軍の少佐という立場があるため、時と場合により参加せざるを得ない状況があった。


 本音と建て前が混ざり合う‟カナリア‟は、綺麗な小鳥を思い浮かべる余地もないほどに、汚い色が混ざり合っている。


 本来であれば、一秒たりともその場に身を置いていたくはないのだが、‟カナリア‟では少々きな臭い動きもあった。


 千桜は向かいあっただけで相手の思惑が手に取るように分かるため、時に監視の意味を込めて社交場に出入りをしている。


 最近では貴賓室に隠れて、政治的陰謀を膨らませている人間が多くいると聞く。


 総理大臣に批判的な一派が暴徒化しているため、もし現在の政権が崩れでもすれば、この国の未来は大きく傾くことになるだろう。


 そういった意味もあり、密会の場として使用されやすい‟カナリア‟を野放しにできない。


 また、あの場に蓮華を連れてゆくのは、婚約者として華族たちに認知してもらう必要があるためだ。


 華族の中でも名の知れた名家、小鳥遊家当主の妻になること──。


 一部ではすでに見当違いな噂話ばかりが先行しているが、あらためて公衆の面前に事実を示す。


 蓮華を社交場に連れてゆくのは気が進まないと思う反面、いつまでも自信を失くしたまま、後ろを向いていてほしくなかった。


 巴家の人間も参加するだろう夜会ではあるが、これを期に過去の自分と決別ができればいい。


 華族など、甚だ馬鹿馬鹿しい。


 そう思うからこそ、蓮華の清らかさを知らしめてやりたかった。




「ですが、どうしましょう。私はよそ行きのドレスは持っていないのです」


 蓮華は、姉たちに連れられた夜会での出来事を思い出した。


 モダンなドレスで飾られた婦人の中で、地味な着物姿である蓮華は浮いていた。時代遅れも甚だしく、皆からの嘲笑を一身に受ける。


 まるで人間を見る目ではなかった。なぜ、家畜がここにいるのか――といった軽蔑の視線を感じた。

 息苦しくはあったが、蓮華はあの環境下で生きてゆくしかなかった。すべてを受け入れるしかなかった。


「案ずる必要はない。似合うものを仕立てさせる」

「そんな……! あの、私」

「手間をかけさせる詫びだと思って、受け取ってくれると嬉しいのだが」


 その華族社会に蓮華が溶け込めるとは微塵も思えない。意匠のドレスも自分には勿体ないと感じてしまう。


 千桜の馴染みの者に声をかけられても、うまく応対できる自信がない。そうなってしまったら、やはり千桜の心証を悪くさせてしまうのではないか。小鳥遊家当主の妻としてふさわしい人物は他にいるのではないか、と非難されてしまう。


 鬱々とする蓮華をよそに、千桜は冷静沈着であった。湯呑を持ち、優雅に白湯を飲んでいる。


 蓮華は過度な緊張から、しばらく食事が喉を通らなかった。

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