人見知り乙女と社交界

第3話

気がつくと環は自室のベッドに横になっていた。随分と寝込んでいたらしく、窓の外に月が浮かんでいるのが見える。


 あれからどうなったのかまったく思い出せない。たしか妖に食われかけたところを周が助けてくれた。そうして、鬼の妖力により殺されかけていた妖に、里山に帰るように促したのだった。それから――。


 ぼんやりと肩に触れると、鈍い痛みがまだ残っている。やはり、記憶違いではなかった。あのあと、周に噛まれて意識を飛ばしてしまったのだ。


『お、環! 起きたのか!』


 むくりと起き上がると足元のあたりでマダラが丸くなっていた。ぴょんぴょんと軽快に飛び跳ねながら環のそばにやってくる。


「マダラ……」

『妖に食われかけたって聞いて、肝を冷やしたぞ。オレがついていればよかったのに、悪かったな……』

「ううん、大丈夫だよ。周さんが、きてくれたから」


 環は膝の上にのっているマダラの頭を撫でた。すると、マダラは不満そうにむくれているではないか。まるで手柄をとられたといわんばかりの態度だ。


『あいつ、いけ好かねえんだよな。騎士のつもりかってんだ。環を横抱きにして戻ってきたかと思ったら、誰もそばに近づけようとしなかったんだぜ?』

「え……え?」


(横抱き?)


 環はぱちぱちと瞬きをし、一瞬言葉の理解に苦しんだ。


『そんでよ、環の匂い、あいつの妖術で消したみたいで。んなことしてくれなくたって、オレがいれば問題ないってのによ!』

「私の匂い? な、なにそれ……」


 すんすんと自分の体を匂ってみるが、分からない。というかこれまでにマダラは一言もそんなことを教えてはくれなかった。


 いやしかし、問い詰めるまでもなく、思い返す。長らく引きこもり生活を続けていた環のそばにはいつもマダラがいたし、四六時中自宅にいるのであれば、危険な場面に遭遇する機会すらないに等しい。訪ねてくる者も口入れ屋くらいであったからだ。


『環の周りに妖が集まってくる理由、それって、お前からいい匂いがするからなんだよ』

「え……」

『そいつらが全員、環を食いたいと思ってるかといえば、違う。あいつらは無駄に好奇心旺盛なんだよ。なんていうんだろうな、心地いいと感じてる奴が大半だろうな』


 マダラはぽりぽりと後ろ足で体をかく。

 昔から不思議に思っていたが、そういう理由からだったのか。理屈は分かったが、内心は複雑だ。


「そっ、そっか……匂いなんて、よく分からないけど、へえ……」

『周が妖術でなんとかしてるみてぇだけど、それも一時凌ぎにすぎないから、まっ、これからもオレのそばを離れないことだなっ!』


 ふんす、と得意げになっているマダラを腕に抱き、「そうだね」と口にする。


 周は今頃何をしているのだろう。昼間遭遇した妖は、無事に正気に戻れただろうか。環が止めなければ、あのまま周は妖を殺してしまっていたのだろうか。


 この依頼を引き受けず、かつての家に引きこもっているままであれば、こうも考えあぐねることはなかった。

 他者の存在は至極複雑で面倒だ。物言わぬ書物と向き合っている方が気楽だ。環は夜空に浮かんでいる月をぼんやりと眺めた。


「ごめんね、今日、おいしいものを食べるって言ってたのに、何も買ってあげられなくて」

『ん? おうよ、言っておくが、オレはコロッケって食いものを諦めてないからな! また連れていけよな!』


 人混みを考えると気乗りはしなかったが、なにか与えてやらねばしばらくうるさいだろう。

 今度女中に頼んでマタタビを買ってきてもらおう、と環は思った。




 翌朝、九條邸の大広間はいつになく騒がしかった。


 あれからもうひと眠りをした環の体調は、問題なく回復した。今日こそは引きこもって読書をする。学術書があれば、一日中解き明かしていたい。だが、さすがに空腹には耐えかねる。


 環はマダラをつれて朝餉にありつこうとしたのだが、すでに見慣れない妖たちが食卓を囲んでいた。どこから沸いて出てきたのか、普段この屋敷では見ないものたちだ。


『おお、起きたか。よかったよかった』

『本当だ。どこも食われていないようだ』


 誰だろう、と思いつつ、食卓につくと女中が朝餉を運んでくれる。


 食欲をそそる白米の香り。こんがりと焼きあがった鮎。添えられている漬物は、環の好物のだいこんだ。湯気たつみそ汁を一口流し込むと、心落ち着くやさしい味わいがした。


「あら、周様、おはようございます」


 すると、二階からこの屋敷の当主が下りてくる。環ははっとして顔を上げた。そして気恥ずかしさにどのような顔向けをすればよいか分からなくなる。


「おはよう。白湯を頼む」

「かしこまりました」


 周は食卓を勝手に取り囲んでいる妖たちを見ても何も言わなかった。もしかすると、九條家ではこのようなことが日常茶飯事なのかもしれない。脅威となりうる妖でないかぎりは、好きに出入りさせているのだろう。


「……」

「……」


 環の向かい側に周が着席する。自由気ままに食事をしている妖たちを挟んで、沈黙が流れた。


(どうしよう……お礼、言わないと……いけないよね)


 運ばれてきた白湯を受け取り、周は朝刊を広げている。


「あっ……あああああ、あのっ!」


 勇気を振り絞って口を開くと、ちらりと周が視線を上げた。


「き、昨日は、危ないところを助けていただき、あっ……あ、ああ、ありがとう、ございました」


 突き刺さるような冷たい瞳は苦手だ。環はおそるおそる声を振り絞る。


「礼はいい。体はもう平気か」

「は、はい。たくさん眠ったので」

「そうか」


 また沈黙。よりによって、食卓を取り囲んでいた妖たちが、ぞろぞろと席を立ってどこかへ消えてしまう。もう少しゆっくりしていけばいいものの、妖という生き物はきまぐれな性分なのだ。


「あ、あの……」


 さっさと朝餉を済ませて、自室に逃げ込んでしまえばいい。だが、環は気づけば自分から声をかけていた。


「お、怒って……ますか」

「なぜ? 怒ってなどいないが」

「……ぜ、ぜったい、お、怒って、ますよね」

「怒っていない」

「でっ、でもっ、よっ……余計なことをしたと……おおおっ、思っています、よね」


 環が食い下がると、周は小さく嘆息をつく。朝刊を閉じ、月のように静かな瞳を向けてきた。


「余計なこと?」

「わ、私が、あの妖を里山へ逃した、ことです……」


 周は問答無用で排除しようとしていた。それを引き止めたばかりか、途中で意識まで失ってしまうとはとんだ面倒な女だっただろう。

 いや、元はといえば気を失ったのは周のせいだ。肩のあたりを噛み、環に妖術をかけたから。


「甘いとは思う。あの手の妖は早々に息の根を止めねば、人間社会との均衡を脅かしかねない」

「……甘い」

「同胞だろうが、情けは無用だ。現世と常世の均衡を守る、それが私の──鬼族の責務でもある」


 責務、という重い言葉がのしかかる。長らく引きこもり生活を続けていた環には、想像ができないほどのものを抱えているのだろう。


「昨日のような、事件は……て、帝都の街中では、よく起こっているの、でしょうか」


 すべての妖が、マダラや口入れ屋のような理性のあるものたちであるとはかぎらない。ましてや、妖はただでさえ人間をはるかに凌駕する力を持っているのだ。

 野放しにしていれば、もちろん両種の均衡にかかわる。


 そうなると、帝都妖撲滅特殊部隊の目も一層厳しくなるばかりだろう。


「そうだ。これはおそらく、氷山の一角にすぎない」

「そう、ですか……」

「このままでは、人間と妖の溝は一層深まるばかりだろうな」


 周は粛々と告げると、白湯を口に含んだ。


「来週末」

「え?」

「銀座のダンスホールで、華族連中が集まる。舞踏会とでもいえばいいか」

「ぶ……舞踏会」

「そこで必ず、白薔薇会という婦人の会が開かれる。茶を飲み、世論を語る――のだとかなんとか」


 環の箸を持つ手が止まる。そうだ、環は周の婚約者となり、社交場に出向かなくてはならないのだ。嫌でも人と関わらなくてはならないとは、今から気が重くなった。


『それ、オレも隠れて見に行ってもいいんだよな?』


 がっくりとうなだれていると、食事を済ませて満足そうにするマダラが出張ってきた。


『怪しまれねえようにうまくやるからよ。ついでに環のことも任せてもらっていい』

「マダラ……」


 マダラがそばにいてくれるとなると頼もしい。自分が社交場などに出向いたところで、いじめられる未来しか考えられなかったのだ。


「ああ、そうするといい」

『けっ、なんだい、きざったらしいぜ』


 華族社会など、まるで別世界なのだろう。一般庶民である環が馴染めるはずもない。勝手な解釈ではあるが、華族の人間は庶民を見下しているように思っている。正直なところあまり好ましくはないのだが、これも給金のためだ、致し方ない。


『そうと決まればっ、腹も満たされたし、もうひと眠りするかあ~』


 ため息をつく環をよそに、マダラは呑気にあくびをしている。よく食べ、よく眠る猫又だ。

 螺旋階段の手すりをぴょんぴょんと上っていくマダラを横目に、残っていたみそ汁を飲み干した。


 こうしてはいられない。はやいところ図書室の中を漁らなくてはならない。読みたい本が山のようにあり、いくら時間があっても足りないくらいだ。


 両手を合わせ、環は席をたつ。外出の予定がないとは、なんて素晴らしい。


「環」


 すると、湯呑をおいた周に名を呼ばれた。

 闇夜のごとき黒髪の中に、月のような瞳が浮かんでいる。


「理性を失った妖であっても、一方的に排除すべきではないと、あなたは思うか?」


 唐突な問いかけだった。環はとくに考える間もなく、頷く。


「まだ、もとに戻れるかも、しれない。人間も、道を違えることがあるように、妖も同じ、だから」

「言葉も通じぬ化け物であっても?」

「……そうなってしまったら、なるべく苦しめずに、常世に返してあげたい、です」


 環は切なげに笑う。


「あの猫又の妖とは、長い付き合いなのか」


 周はなるほど、とひとりごちると、再び話題を切りだした。まさかここでマダラのことを尋ねられるとは思いもしなかった。


「は、はい……物心ついた頃から、いっしょに、います」

「家族は? 家を出てきてしまっては、心配もするだろう」


 湯呑に手をかけ、周が問いかける。


「家族はマダラだけなので、問題……ないです」


 環は一瞬だけなんと回答すべきか逡巡した。月のような瞳が交錯すると、居心地が悪くなる。


「マダラだけで……いい、です」

「……それは」


 伸びてくる腕。視界を覆う手のひら。化け物のような表情。高らかな笑い声。――燃え盛る、木々。

 それらが脳内を駆け巡ったところで、環は我にかえった。


「ご、ごめん、なさい。あ、あのっ……し、失礼しますっ……」


 それは無意識に封じ込めていた記憶だ。環の中には、妖よりも恐ろしい人間たちが居座っている。なにか言いたげな周を見ないようにして、二階へ上がっていったのだった。



  *


 帝都、銀座にある会員制の高級ダンスホールは富裕層で賑わっていた。陽が沈んだ時間帯だというのにもかかわらず、煌々と輝いている。路肩には黒塗りの自動車が並び、派手な風貌の男女がぞろぞろと姿を現した。


 環は周にエスコートというものをされ、重い足取りでエントランス前までやってきた。


 ただでさえ人との関わりに苦手意識があるというのに、華族を相手にするなど無理な話である。帰りたい、帰りたい、帰りたい、と心の中で唱えずにはいられない。


 正直なところ、なんの役にもたたずに帰宅する未来しか描けていないのだ。仕立ててもらった紅色のドレスも身の丈にあっているような気がしない。華族令嬢といったい何を話せばいいというのだ。


『ひょえ~、こんな夜中だっていうのに、ぎらっぎらに輝いてんなあ~』


 人の多さにはやくも吐きそうになっていると、環の影の中からひょろりとマダラが現れる。


 マダラは妖術をつかい、環の影の中に隠れながらついてきてくれている。自由自在に変化できる妖がうらやましい。環も影の中に隠れていられたらどんなに幸せだろうと思った。


「わ、私につとまるとは思えないの……ですが」

「交流をもつように、とまでは言っていない。ただ、令嬢界隈で怪しげな動きはないか、見てきてくれるだけで十分だ」

「ううう……で、でも、そういうわけには、いかないのでは……」


 周囲からは先ほどから突き刺さるような視線が向けられている。この九條周という男が目立たないわけがないのだ。

 そうなってくると必然的に隣にいる環にも興味関心が向けられてしまう。ちくちくとした視線にさっそく品定めをされているような気がしてならない。


「いっ、今までも、こうして女性に協力して、もっ、もらっていたの、ですか」


 本来、このような高級ダンスホールになど一般庶民が来られるはずもない。門前払いをされてしまうのが関の山だ。


 だからこそ、このような場所を好む令嬢たちは、自尊心が高いのではないかと思うのだが。


「まさか……ここまで目的を明らかにしているのは、環がはじめてだ」

「え……では、これまでは」

「令嬢界隈に妙な様子はないか、それとなく相手に探っていた」


 周はなんの悪びれもなく告げる。潔いまでの態度を前にして、環はげっそりしてしまった。血も涙もないなんて非情な男だ。分かってはいたが。


『うげえ、使えるものはなんでも使うって? やな感じ』

「さあ、そのあたりは相手も同じだ。華族連中のとる行動には、かならず裏があるからな。九條の名前を好いていただけで、私を好いていたわけではない」


 環には色恋云々はよく理解できないが、もし本当にそうなのだとしたらとても虚しいことだ。これだから人間は信じられないし、恐ろしい。


「……この話はもういいだろう。入るぞ」


 周はそっと腕を差し出し、環を館内に導いた。この一週間、女中とともに歩き方の練習をしていたものの、洋風の履物には未だに慣れない。油断をするとドレスの裾を踏んでしまいそうだ。


(は……恥ずかしい)


 やけに重厚感のある扉の先は、まるで異国のような空間が広がっている。響き渡っているのは、楽器の生演奏だ。上品なワルツ、ゆったりと踊っている男女。きらきらと輝くシャンデリアに、敷き詰められた赤い絨毯。まるで――別世界だった。


「おお、ごきげんよう、九條くん」

「九條くんではないか、ごきげんいかがかな」


 メインホールに足を踏み入れるなり、周は多くの人に声をかけられた。江戸時代から続く名家――九條家当主の存在は、上流階級の注目の的であった。飛び交う話題といえば、政治経済のこと、あの官僚はどうだとか、懇親を深めるためのパーティーへの誘い、そして――縁談のこと。


「――それで、貴族院議員の関氏といえば、どうも憲兵と裏でつながっているみたいでしてね……」

「賄賂を受け取っているのだとかなんとか、聞いたことがありますな」

「けしからんやつめ。これだから成金あがりの華族は」

「まったくだ……あちらの派閥にはろくなものがいない。……それにしても、どうだね、九條くんとはこれからもよい付き合いをしていきたいと思っているのだよ」

「私が贔屓にしているお家のお嬢さんがね、とても気立てのよい子なんだ。どうだい、ひとつ会ってやってみないかな」


 目の前でああだこうだと議論がされている。環はいよいよ居心地が悪くなり、こっそりと周の背に隠れるようにして華族たちの視線から逃れた。


「あいにくですが、今はよいご縁がございまして」

「おや……? お連れになっているそちらのお嬢さんが今度のよい人で?」

「はい、婚約者の環といいます。ご報告が遅れてしまい申し訳ございません。また、ちょうどよい機会ですし、今夜は白薔薇会にもお邪魔させていただきたいと思っているのですが」

「おやおや、まあまあ、婚約者……。それはそれは……」


 周の応対は完璧だとしか言いようがなかった。環はぺこりと頭を下げるが、目の前の政治高官たちが恐ろしくてたまらない。顔を真っ青にしていると、周がそっと環の腰を抱き寄せてくる。


「残念だが、それであっては仕方がないね」

「いったいどこのお嬢さんでいらっしゃるのかな」


 興味関心、好奇の目がちくちくと突き刺さった。

 目玉がたくさんこちらに向いている。それはまるで、かつて環が見たことのある化け物のようだった。


「彼女はこのとおり恥ずかしがり屋なのです。できれば、そっとしておいていただけると幸いなのですが」

「おっと、これは失礼した。いやはや、これまでに見かけないお嬢さんだと思ってねえ」


 口では引いてくれているが、内心は納得いかないといった具合だ。環はごくりと生唾をのむ。


「それにしても、白薔薇会か……それであれば、西宮さん。ご案内をさしあげたらどうだろうか」


 西宮、と呼ばれた男は、丸眼鏡をつけた五十歳ほどの男だった。飲んでいたワインをテーブルに置くと、しげしげと環を見つめる。


「あ……ああ、そうですな。おい、時子。環さんを白薔薇会へお連れしてやってくれないか」


 西宮はそばにいた若い女を呼びつける。女は他の者と話し込んでいたところを中断し、こちらを振り返った。いかにも育ちのよさそうな令嬢だ。


「お父様、こちらの方は?」

「九條くんの婚約者の環さんだ」

「まあ……九條様の」


 他人の視線が向けられるたびに、びくびくと震えてしまう。


(ご、ごめんなさい。私なんかが、周さんの婚約者を名乗ってしまって)


 さっそくいじめられるのではないかと思うと恐ろしくて仕方がない。


「ごきげんよう、九條様。そしてはじめまして、環様。わたくしは西宮時子と申します」

「……は、はじめ、まして。九重環と申します……」

「九重……」


 時子はドレスを広げ、礼を取る。環もぎこちない挨拶を返すが、うまくできているか不安がぬぐえない。


 今日までに社交マナーは女中から叩き込まれた。環はそんなことよりも図書室に籠って本を読んでいたかったのだが。いじめられてしまっては嫌だから、としぶしぶ指導を仰ぐことになったが、この一週間は本当に苦痛だった。


「九重とは……そのような家、このあたりでは聞かないな」

「いや待てよ、たしか水戸のあたりで聞いた気がするのだが」

「九重……九重……。ああ、たしかそう、伯爵家ではなかったか? なんでも、水戸の土地に思い入れがあるため、あの場からは動かないのだという」

「伯爵か……? ならば、素晴らしい血筋のお嬢さんではないか」


 大人たちがこそこそと話し始めるものだから、一瞬、早々にしくじったのではないかと冷や汗をかいた。苗字など自分から口にするものではなかったのかもしれない。環が顔を真っ青にしていると、よく分からないが状況は好転していた。


 伯爵などとはとんでもない。環が華族出身であるとはとんだ笑い話だ。


 しかしここは、あえて否定せずとも、勘違いをされたまま押し通すべきか。


(周さんは最初からこうなることが分かっていたんだよね……?)


 ちら、と周の様子を伺うが、普段の冷淡な表情を浮かべるままだ。とくに口をはさむ必要もないという判断なのだろう。


「まあ……そのような方と知らず、子爵家のわたくしがご無礼をお許しくださいませ」

「あ……えっと……あはは」


 時子はうやうやしく頭を下げる。違う、そもそも環は一般庶民のだが。本来は敬意を払うべき相手ではないことは、環自身がよく理解している。


「わたくしのような者の案内では、不足があるかもしれませんが……」

「いっ……いえ、そんなことは、ありません。ご親切に、どうもありがとう、ございます」


 華族は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順で序列されている。中でも公爵が一番人数が少なく、華族の中でもっとも皇室に近い存在ともされている。伯爵は真ん中の位であり、子爵よりも上位だ。


 偶然が重なって幸運だったともいえるし、裏を返せば真実が明らかになってしまった時を考えると末恐ろしい。


『伯爵ってなんだよ? 偉いのか?』

(すごく偉いよ……とんでもない勘違いをされちゃってる……どうしよう、誤解を解かなくてよかったのかな)

『まあ、すっとぼけていればいいんじゃねえのか? いじめられるよりはマシだろう』

(そ、そうだよね……)


 マダラは影の中から環にだけ聞こえるように話しかけてくる。それにしても、周も周で意地が悪い。同じ苗字の華族が存在する、とあらかじめ教えてくれたらよかったのだ。


 環は長い引きこもり生活のおかげで学問には精通しているものの、世情にはもっぱら疎いのだ。


「では、時子。失礼のないようにね」

「はい、お父様」


 そうして、環はいよいよ白薔薇会に足を踏み入れることとなる。


「よろしく頼みます。時子さん」


 令嬢失踪事件――。それは、いったい何者が関与しているのか。

 緊張の色を浮かべている環を、周は麗しい笑みで見送ったのだった。


  *


 周と別れると、環はとたんに心細くなった。人見知りをこじらせている環が、華族令嬢と渡り合えるわけがないのだ。時子に連れられて、ダンスホールの貴賓室までやってくると膝がかたかたと震えてしまった。


「まあ、時子さん、ごきげんよう」

「ごきげんよう、よし江さん」


 貴賓室の中は令嬢たちで賑わっていた。入口から見える二階部分では、数人の令嬢がテーブルを囲んでいる。優雅にティータイムをしているといったところだろうが、大抵の者たちは一階部分で立ち話をしているようだった。


 環は時子の背中に隠れてびくびくと震える。注目が自分に向けられているこの状況は如何せん耐え難かった。


「あら、そちらの方は……」

「九重環様です。九條周様のご婚約者でいらっしゃるそうで、この度はご挨拶をと」

「九條様の……? まあまあ……」


 上から下まで品定めをされているような気がした。環は令嬢たちの視線から逃れるように身を縮こませる。


「わたくしは、平塚よし江と申しますわ」

「こ、九重、たっ、環……です」


 フリルがふんだんに使われた豪奢なドレスが目に飛び込んでくる。いかにも上流階級であるといわんばかりの風貌に、尻込みをしてしまう。


(やっ……やっぱり、むりだよ)


『つってもよお……少しでも怪しいもんがないか探らねえとなあ』


 環にだけ聞こえるマダラの声にびくりと反応する。周囲を見渡しても妖ものの気配は感じられない。もし、令嬢たちの中に人ならざるものが混ざっていたのであれば、環は早々に見破ることができるだろうが。


「そ、それにしても、ず、随分とたくさん……に、賑わっていらっしゃるんです、ね」


 挨拶もそこそこに、環は怯えながら話題を切り出した。人とのかかわり方などよく分からないのだ。


「え? ええ、そうですね。環様は白薔薇会ははじめてですの?」

「は、はい。今まではあまり、こういう場には出向いたことが、なかったもので……」


 よし江はいぶかしむような視線を環へと向けてくる。


(や、やっぱり怪しまれてる……!)


 あきらかに令嬢らしくない振る舞いであることは重々承知している。機転の利く行動がとれるわけもなく、環はびくびくと肩をすくませるばかりであった。


「そう……ですか」

「環様のお家は水戸の伯爵家でいらっしゃるそうなんです。だから、このような場にいらしたことはないのかと」

「水戸の伯爵家……まあまあ、それは申し訳ございません。失礼いたしましたわ」


 ひとたび沈黙が流れると、時子が仲裁に入った。華族であるとはとんでもない嘘なのであるが、よし江の表情は分かりやすいほどに友好的なものに変わったのだった。


「ここは、白薔薇会といって、華族当主、もしくはそのご子息を応援すべく、その妻、そして婚約者たちで結成されているのです」

「そ……そうなん、ですね」


 となると、ここにいる令嬢たちは全員、華族である誰かと夫婦であったり、婚約関係にあるということになる。ただ華族令嬢であるだけでは、この白薔薇会の一員に加わることはできないのだ。もしかすると、華族に生まれた令嬢たちにとっては、この場への招待は何にも代えがたい名誉なのであるかもしれない。甚だ環には縁遠い世界だ。


「中でもあの二階席にいらっしゃる方々は、わたくしどもにはとてもとても……手の届かぬ存在」

「……と、いうと?」

「あの方々は、公爵家令嬢でいらっしゃるのです。中でも、中央の席に座っていらっしゃるのは、栗花落玲子つゆりれいこ様……白薔薇会を先導されているお方ですわ」


 よし江があまりにうっとりと目を細めるものだから、環はつられて二階席を見やった。この貴賓室に入った時に一番はじめに視界に飛び込んできたが、まさに選ばれし者のみが上がれる天井の場所だった。


 二階席の中央には、痛みひとつない黒髪を胸の下あたりまで伸ばしている令嬢が腰を下ろしている。優雅にティーカップを持ち、談笑していた。


(綺麗な人……)


 環はぼけっと口を開いたまま見入ってしまう。周と同様に、儚い中にも艶やかさが香る美しさ。まるで環とは次元が違う。月とすっぽんだ。


『うげえ、オレはああいう気取った女は嫌いだね』


(き、気取ってるようには見えないけど……)


『明らかにすましてんじゃねえか。あんな二階の席なんかに座ってよお』


 どうやらマダラは気にいらないようだ。かといって、環自身も仲がよくなれるのかと問われれば、とてもじゃないがそんな気は微塵もしないだろうと思った。


「と、ところで……、ひとつ、気になることがあるのですが、よろしいで、しょうか」


 ぼんやりしている場合ではない。まったくもって腰が重いのだが、環には調べねばならないことがある。

 時子とよし江の視線がこちらに向けられると、環はびくっと肩を震わせる。


「わ、私……う、噂をみっ、耳にしたのですが……」

「噂?」

「あっ……あのっ、近頃、れ、令嬢が失踪している……と。だから、す、少し……怖くて」


 きょろきょろと視線を泳がせ、やっとの思いで問いを口にできた。


「ああ……そうですわよね」

「ここ最近、令嬢が失踪されているのは、事実ですわ。とくに、行方不明者は白薔薇会に所属している令嬢がほとんどですの」

「そ、それじゃあ……み、みなさんは、こ、怖くはないの、でしょうか」


 白薔薇会に属する令嬢が狙われているといってもいいような状況だ。それなのに、ここにいる者たちは優雅に談笑をするばかりで、我が身を案じているそぶりはない。


「もちろん、みな警戒しておりますわ。護衛をつけて、一人になる機会はつくらないようにしております」

「で……でも、ここには護衛の方々はお見えにならないような……気がするのですが」


 警護されているというのであれば、過剰な心配はいらないのかもしれないが、犯人は妖である可能性が高い。そうなれば、お手洗いに行くために席を立った瞬間を狙われることだってある。そもそも、男子禁制ともいえる白薔薇会には、腕っぷしのたちそうな護衛の姿はなかった。


「まさか……ここは白薔薇会ですもの。みな慎ましい女性……そのような物騒な出来事が起こるはずもありませんわ」

「で、ですが」

「とはいえ、行方不明になった令嬢は誰一人として見つかってはおりませんの。帝都警察は何をされているのかしら。早く犯人が捕まってほしいものですわね……」


 時子とよし江はお互いに顔を合わせてため息をついている。


『……となるとやっぱり、この白薔薇会がいっそう怪しいんじゃねえのか?』


 二人の間に挟まれて身をすくませていると、環の意識の中にマダラが声をかけてきた。


(マダラもそう思う……?)


『だってよ、被害者はこの白薔薇会に出入りしている令嬢がほとんどなんだろ? 接点を利用して、こっそり攫って食っちまってるんじゃねえかって話だよ』


(で、でも……だとしたら誰が? ここには妖の気配はしないよ)


『そうなんだよなあ、こうなってくるともう少し聞き込みが必要になるかもしれねえな』


 これだけでも精一杯だというのに、またさらに人脈を築かなくてはならないのか。環は顔を真っ青にして首を振った。


「どうされましたの?」

「い……いえ、なんでも、ありません」


 いっそ白薔薇会の中に分かりやすく妖しい人物がいてくれたらよかった。そうすれば、対象者を周に告げたら万事解決。もう二度とこのような社交場に連れられる機会もなくなるだろうに。


「なんなんですの……! いったいどうして、わたくしがおかしな言いがかりをしているというの!?」


 再びうつむいた時、貴賓室一帯で突然金切り声が炸裂した。びくっと肩を震わせると、二階席から大股で階段を下りてくる令嬢がいる。名前は知らないが、二階席にいたということは、華族の中でも最も位の高い公爵家令嬢だろう。


「もういいわ、あなた方ではお話になりませんもの」


 何があったのか。穏やかな令嬢たちの会合は、彼女が声を荒げたことにより、しん……と静まり返ってしまう。かなり苛立っているように見えた。それだけでなく、もともとの性質なのか気の強そうな令嬢だ、と環は思った。


「あ、あの方は……」

綾小路雅あやのこうじみやび様ですわ。あの玲子様と同じく公爵家令嬢であらせられるお方」


 あたりに緊張感が走ったため、時子はこっそりと耳打ちをして教えてくれた。


「そんなすごい方が、どうして」

「実は先日、雅様の旧来のご友人が失踪されたのです。もちろん、白薔薇会のご令嬢で、お名前を冨永瑠璃子とみながるりこさんと申します。それで……」

「え?」

「ええ、それで……大変申しにくいのですが……雅様は、この白薔薇会の中に犯人がいると、玲子様に直談判をされているんです」


 環ははっと喉を鳴らした。雅は、行方不明となった友人のため、自力で事件を解決しようとしているのだ。環や周の考えがあっているのであれば、今頃は妖ものの巣に囚われているか、もしくは、もうすでに――。


「雅さん、お静かに。みなさまが驚かれているでしょう」


 すると、雅を追いかけるようにして、玲子が螺旋階段を下りてくる。ただそれだけの光景であったのに、ため息が出るほど美しかった。


「では、わたくしの意見に耳を傾けていただけるのでしょうか」

「……雅さんのお気持ちは十分にお察しいたします。けれど、このような場所で騒ぎ立ててしまっては、余計にみなさまの心配を煽るだけでしょう」

「だから、わたくしは、その白薔薇会自体が怪しいのではないかと申しているのですわ!」


 環たちの目の前で立ち止まった雅は、ものすごい剣幕で捲し立てている。思わず二、三歩後退してしまうほどだった。


「善良なみなさまを疑うなどとは……心苦しいことをどうかおっしゃらないで」

「どうして玲子さんはそう呑気でいらっしゃるの? もう良いです。わたくし一人で調べてみせます」


 そう言い捨てて、いよいよ雅はこの場から去ってしまった。

 この華族界隈で一番偉い人物相手にそこまで言えてしまうとは、と環は腰を抜かしそうになった。


『すっげえ……』


(うん、でも、あの人だったら、なにか知ってるのかな)


『あそこまで強気な態度をみるかぎり、そうかもしれねえな。近づいてみる価値あり、だな』


 マダラの声に環はどきりとした。まさか、雅のような勝気な令嬢にどうやって接触しろというのだ。環の技量では甚だ難しいように思えるのだが。ぶるぶる震えていると、ひと際美々しい雰囲気を醸し出している玲子と目があった。


(――え)


 玲子は環に気が付くと、目尻を細めて笑いかけてきた。


「あら、はじめてお目にするお嬢様だこと」

「あ……えっと」


 そうだ、環は今日はじめて白薔薇会の扉を叩いた新入りなのだ。となれば、それを先導する者に挨拶をしないなど、失礼極まりない。


「こちらは九重環様でいらっしゃいます。九條周様の婚約者であるそうで、本日より白薔薇会にお見えになっておりますわ」

「そう……九條殿の……」


 すうと目が細められ、環の顔をよく見るように一歩近づいた。口元のひとつをとっても麗しく、気を抜けば飲み込まれてしまうような雰囲気をもつ令嬢だ、と環は思った。


「ふふ、かわいらしいお嬢様ね」

「ひっ……」


 ふわり、薔薇の香りがした。魅惑的な笑みを向けられ、環はおどおどと身を強張らせる。


「わたくしは栗花落玲子。今日ははじめてだというのに、怖がらせてしまってごめんなさいね」

「い、いえ……」

「ここはとても素敵な場所よ。どうかそう緊張せずに、楽しまれて」

「……は、はい」


 そんなわけがないだろう。環は一刻もはやくこのドレスすら脱いでしまいたいと思っているのだ。人と関わるのは苦痛でしかなく、暗くじめっとした部屋で本を読んでいたい。ましてや、育ってきた環境が異なる令嬢たちとまともに打ち解けられるわけがない。表では綺麗な顔を浮かべておきながらも、どうせ、玲子も一般庶民を見下しているに違いないのだ。


 びくびくと肩を揺らす環をみて、玲子は再び目を細める。


「本当に……かわいらしいお嬢様だこと」

「あ、あの」


 桃色に艶めく唇がゆるやかな弧を描いた。


「白薔薇会へようこそ。――……環さん」

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