人見知り乙女と帝都デェト

第2話

「いたっ……いたたたた」


 硝子の窓からさしこむ朝日とともに、環の意識は覚醒する。どうやら先ほどから髪が引っ張られているようだ。瞼をこすって頭上を確かめると、一つ眼小鬼が枕元でいたずらをしていた。


『しんいりだな! 起きろ! やいやい!』

「うん……もう、すこし……」


 そうだ、先日から九條家に身をおいているのだった、と環はぼんやりと思い至る。


(そういえば、マダラがいない)


 一つ眼小鬼に髪を引っ張られながら、環は一抹の寂しさを抱く。猫又のマダラは環が幼い頃から隣にいた。どんなきっかけがあったのかは覚えていないが、物心ついたころから独りぼっちであった環にとっては、友達でもあり家族のような存在でもあった。


(欲しがってたマタタビも、たくさん買ってあげるんだけどな……)


 上等なベッドは、環の家で使い古されている薄っぺらい布団とは比べ物にならないほどに寝心地がよかった。うとうとと再度眠気が押し寄せ、意識の境界線が曖昧になる。


『だーから! 違うって、オ、オレは、怪しいモノノケじゃ……あたたたた! 環! 環! いるんだったらこいつをなんとかしてくれ!』


 その時だった。聞き覚えのある声により、環の意識は覚醒した。


(この声、マダラ……?)


 慌ててベッドから飛び起き、自室の扉を開け放つ。一つ眼小鬼が肩の上にのってついてきているが、気にせずにパタパタと足を進めた。


 二階の長い廊下を通り過ぎ、声が聞こえてくる一階へと向かう。螺旋階段を降りると、思ったとおりの面影があった。


「ま、マダラ!」

『た、環ぃ~! こいつがいじめるんだよ!』


 見れば、屋敷の玄関でマダラが周によって捕獲されているではないか。環は血相を変えて駆け寄った。


「なんだ、環の連れか」


 月のような瞳が環に向けられて、どきりとする。それも束の間、環の表情はみるみるうちに青ざめていった。

 二つに分かれているしっぽを鷲掴みにしたまま、周は環とマダラを見比べている。


 マダラがなにものかに隙をみせるなど珍しい。餌につられることはあっても、捕獲されるまでの下手をうったことはなかったはずだが。


「そ、そうなんです! マダラとは、ずっといっしょに暮らしていて、だから、その、お、お願いです。どうか、ご、ご容赦を……」


 環が深々を頭を下げると、周は小さくため息をついてマダラを解き放ってくれた。


『ひえええ、おっかねえぜ……なんだあいつは、とんでもねえ気を持っていやがる』


 やっとの思いで脱出が叶ったマダラは、環の背後に隠れると周をあけすけに警戒する。鬼の姿をしていないとはいえ、周がもつ冷気はマダラの警戒を産んだ。敵か味方かも知れない妖を前に、鬼の気配を隠す必要もなかったという判断なのだろう。


「その猫又は妙な気を放っているな」

「え? 妙……?」

「害をなすつもりがないのなら、いい。それよりも――」


 再び周の氷のような瞳が環へと向けられ、硬直する。視線は環が着用している夜着へ。そして、肩にのってくつろいでいる一つ眼小鬼へと移動した。


「着替えもせずに飛び出してくるとは、あまり感心しないな」


 一歩環へと近づくと、解けてしまった胸もとのリボンに細長い指を絡める。


「ひっ……ああ、あの」

「身支度が面倒ならば女中を呼べばいい。あれは他人の世話をやくのが好きだからな」

「そ、そそ、そうさせて、いただきます……」


 わざと距離を詰めているのではないかとすら感じる。そうして、慌てふためく環を面白がっているのだろう、そうに違いない。環は昨夜の出来事を想起しては、大きく頭を振ってかき消した。


「今日だが、銀座の街に出向こうと思う。そこで一通り、必要なものを買いそろえなさい」


 気恥ずかしくなりうつむいていると、胸もとに伸びていた指がそっと離れる。


(街……?)


 街とは、環に縁のない場所だ。暗くじめっとした場所をもっぱら好む環にとって、人混みなどできれば遠慮願いたい。


「そ、それは、わ、私も同伴するという意味でしょう……か」

「当然だ」

「いいいい嫌です……! 街なんて、む、むりです……」


 何故外出しなくてはならないのか。本日の予定としては、丸一日九條家の図書室に引きこもるつもりだったのに。


『なあなあ、それって、うまいもんが食えるってことか?』

「た、食べられると思うけど……でも」

『じゃあ行こうぜ。おい、そこの……おまえ! オレも‟猫″の姿でついていく。いいだろ! 』


 顔面蒼白になりながら正面を見れば、勝手にしろと言わんばかりの顔つきをしている。


(そ、そんな……! 勝手なことを言わないで)


 給金までもらっている手前、口にするのは躊躇われる。


「朝餉を済ませたら、私の部屋までくるように」


 環がおろおろしていると、周はさっと身を翻して二階へ上がってしまった。


「引きこもりたかったのに……」


 がっくりとうなだれていると、一つ眼小鬼がけらけらと笑っている。


『しょげているぞ』

『しょげている。おもしろいな』

『いじめてしまおうか』

『だめだ、周様に怒られる』


 そればかりか屋敷中を駆けずり回っている座敷童子たちの声も聞こえてきた。妖を恐れない人間がよほど珍しいらしい。環は九條家に住み憑く妖たちに大層気に入られていたのだった。



 環はそれから、マダラとともに朝餉を手早くすませて自室に戻った。


 マダラは九條家の食事が気に入ったようで、山盛りの魚を食べあさっていた。まさかそんなに平らげてもなお、帝都の街で食にありつこうというつもりなのか、と環は呆れ返る。


『それにしても、あの男、只者じゃねえようだけど……あいつはなんなんだ?』

「契約上の婚約者の九條周さんだよ」

『えっ!? でも、オレに向けたあいつの気……どうみても妖だったぞ?』

「うん、普段は人間社会に紛れて生活をしてるみたい」


 扉を閉めるなり、マダラは衣装箪笥や洋風鏡の上をぴょこぴょこと走りまわると、最終的にベッドの上に着地をする。ベッドが気に入ったのか、ぽすんと身を沈めた。


『気の使い分けが巧みすぎて恐ろしいくらいだ……。ありゃあ、妖側からも見分けがつかねえと思うぜ……』

「あ、周さんは、鬼族の末裔なんだって」

『鬼ぃ……? そりゃあとんでもねえもんと縁を結んじまったもんだ。それにしても鬼族といえば、たしか……』

 

 コンコンと控えめに扉がノックされる。なにかを言いかけていたマダラをよそに、環は慌てて扉のそばまで駆け寄った。


「環様、御仕度のお手伝いをさせてくださいませ」


 廊下に立っていたのは、妖の女中だった。あれから名前を聞いてみたが、とくにそれらしいものはないらしい。


「あ……は、はい。お願いします」


 女中は嬉しそうな様子で部屋の中に入っては、衣装箪笥の中から洋服を見繕いはじめた。環としてはそこまで外出に乗り気ではなかったのだが、女中のやる気の入り具合を見てしまうと、かえって居たたまれない気持ちになった。


『オレは支度が整うまで寝させてもらうぜ~。ふああ、腹もいっぱいだし、このベッドも、気に入ったぞ……』


 マダラは能天気でうらやましい。環は深いため息を吐く。


 給金目的だったとはいえ、やはりこの役目は荷が重すぎた。


「それにしても、周様がご自分から女性をデェトに誘われるだなんて。わたくし、俄然気合が入ってしまいますわ!」

「で、デェト……?」


 デェトとはいったいどういう意味か。環は女中の言葉の解釈に苦しんだ。


 生まれてからこの方、人の友人すらもったことがない環にとって、デェトなるものに縁もゆかりもない。御伽噺の中の出来事だとばかり思っていたが、そうか、本日のこれがデェトに当たるのかと狼狽する。


「じょ、女中さん、わ、わわわ、私、やっぱりむりです……」

「ふふふ、そうおっしゃらずに。さあさ、こちらのお洋服なんてお似合いだと思いますわよ」


 環はマダラに助けを求めたが、呑気に寝息を立てているのだから呆れかえる。


(もう……! おねだりされても、マタタビ買ってあげないんだから!)



 それからというもの、環は流行りだというワンピースと着せられ、洋風鏡の前で化粧まで施された。

 慣れない白粉や口紅。仕上げだとばかりに舶来もののライラックの香水を施されると、陰気な娘からモダンガールへと変貌を遂げる。


「まあまあ! 思った通り、かわいらしい!」

「ううう……」


 環にはどこがどうかわいいのかが理解できない。

 それより、これから人混みの中に出向くことを考えてしまって憂鬱極まりないのだ。


「さあさ、周様のもとへ参りましょう」

『んお……? おお、もう行くのか?』


 女中に連れられるままに廊下へと出ると、そのあとをマダラがぴょこぴょことついてくる。

 環もマダラのような生活を送りたいものだと心の底から願ってやまない。

 すると、天井裏が例の如くバタバタと騒がしくなった。


『にんげんのむすめだ』

『このにおいは……おまえ、たまきか?』

『見目がちがうが、たまきだ』

『おいしそうだ、味見がしたいぞ』


 周の執務室の前に辿りつくやいなや、壁や天井を走り回る座敷童子に遭遇する。


(味見だけは勘弁してもらいたいものだけど……)


 ずんぐりむっくりな子どもの妖が無数に環たちを取り囲んだ。退くように、と女中が制すが、座敷童子たちは俄然環に興味を示している。


 妖の中には当然、人を食らって寿命を得ているものもいる。マダラはその点でいうと、人を食わない妖ではあるが、中には人肉に味をしめて悪さをするものもいるのが現実だ。


 人を食う――それは、一件恐ろしく、許しがたい行為だというのが一般論であるが、環にとっては、人が動物の肉を食らって養分を得ているのと同義だった。


 人を食う妖がいたとしても、なんら不自然はない。それはむしろ、自然の摂理なのだ――。


「――味見は許さん。私の婚約者だ。食われては困る」


 ガチャリ、扉が開く。


 今まさにドアノブに手をかけようとしたところだった。座敷童子たちの騒ぎを聞きつけたのか、思いがけず周の方から姿を現した。


『おお、周様はこわいぞ』

『こわいこわい、こわいのう』

『おいしそうだが、たべてはいけないようだ』


 ともすれば、あはははははは、と笑いながら座敷童子たちはその場を離れていく。


 環はしばらくあっけに取られてその場に立ち尽くした。


 エリのついた洋風のシャツに、モダンなサスペンダーがついたズボン。鮮やかな花の刺繍が施された鳶とんびコートが肩かけされている。

 さも涼し気に着こなしているが、街を歩けば周に目が引かれない者はいないだろう。となれば、環は余計に委縮をすることになる。


『ちぇっ……、鬼なのにモダンボーイぶってやんの。人間被れしやがって』

「人の社会で生きる選択をとろうが、私の勝手だろう」


 環の背後でマダラが悪態をつく。あまりの美々しさにひがんでいるのだろうが、その言い方はよくない。


『へっ……どうだが、今回の依頼の内容だって、偽りの婚約者だあ? おまえ、そんなのを求めてどうしろっていうんだよ。そんななりして、人と縁を結びたいロマンチストかなにかかあ?』

「ちょ、ちょっと、マダラ……言い過ぎだよ」


 慌ててマダラを抱き上げ、諸悪の根源である口を手のひらで覆う。もごもごと暴れる猫又を両手で抱えて、環は何度も深々と頭を下げた。

 繰り返し謝罪を述べる中でちらりと視線を上げると、冷え冷えとした瞳と交差する。


 ロマンチストなどとはとんでもない。この男からはロマンの欠片も感じられないではないか。


「目的なら、明確にある」

「え……?」

「私の婚約者という建前を使い、華族の令嬢界隈を探ってほしい……これが、此度の依頼の真の狙いだ」

「れ、令嬢かい……わい……」


 嫌な予感はしていたのだ。


 周ほどの男がなぜ婚約者を求めていたのか。おそらく、のっぴきならない理由があるのではないかと踏んでいたが、とうとう悪い予感が的中し、環は軽い眩暈を催した。


『令嬢界隈だあ? いったいなんだってそんなところに環が入っていく必要があるんだよ』


 マダラが不服そうに意見を述べると、周は眉ひとつ動かさずに返答をする。


「……ここ数ヶ月前から、令嬢の失踪事件が多発している。詳細を調べたいのだが、何分、男の私では不足することが多い。だから、融通のきく女性を求めていた」


 猫又のマダラと淡々と会話を進める周。その間に入っている環は鬱々としつつも、会話の内容に耳を傾ける。


「といっても、私の屋敷を不気味がって離れていく者があとを立たなくてな。難儀していたのは事実だ」

『……つってもよ、中には本気でおまえのはなよめになりたかったおんなもいたんだろうに、利用なんてしやがって……いつかバチが当たるぞ』

「さあ、相手方も同じような動機故に私に取りいっているようだったが? ……とにかく、危険が伴う分、私の"式"をつけさせてもらうつもりだ。もちろん、給金も満足がいく分支払うし、身の安全も保証しよう」


 令嬢の失踪……。

 ただの事件であれば、警察に任せていれば良い話だ。だが、もしも万が一、人間の警察では解決できないような事案であったとしたら?

 鬼である周がわざわざ関わろうとする理由は──なにか。


「それって、も、もしかして、妖……絡みの、じ、事件なので、しょうか」


 おどおどとしつつも、環の脳内は冷静だった。考えを述べると、周は満足げに口角を上げる。

 周と目が合い、環ははっとしてうつむいた。やはり、いくら妖だとはいえ、人の姿をしていては、どうにも緊張してしまう。


「そうでなければいいと思っているが、おそらくは」


 ――妖が、令嬢を食っている。

 周の表情が物語る。


「その失踪事件は、ど、どのくらいの頻度で、お、起こっているのでしょうか」


 環はごくりと生唾をのんだ。


 威風堂々と歩みを進める周のあとをついてゆき、螺旋階段を下りてゆく。屋敷の正面玄関の前には、黒塗りの自動車が停められていた。


「はじめは月に数回……最近では、三日に一度ほどになっている」

「おかしい……人肉を食らう妖は、よほどのケガをしていないかぎりは、月の一度の食事でも、満足するはず……」

『あきらかに、食いすぎだなあ』


 環は本来面倒ごとを嫌う性分だ。

 基本的には家に引きこもる生活を好んでいて、新しい学術書や歴史書を読みふけるためだけに生きているようなもの。

 だが、妖とは幼い頃から不思議な縁に結ばれている。

 人も、妖も、環にとっては同じ。いや、むしろ妖の方が身近であり、よほど理解に易いと思うくらいだ。


 社交場は大の苦手だが、もし本当に悪さをしている妖がいるのであれば、誰かが正気に戻してやらねばならないのだろう。

 それが無理だというのであれば、最悪――。


「……と、ここまでが本来想定していた趣旨だが」


 不意に下ろしている環の髪へと色白の指が伸びる。驚いて目を見開けば、すかした顔の周がいるではないか。

 すう、と月のような目を細め、満足げな笑みを浮かべて。


「九重環という存在に、すこし、興味が沸いているのも事実」



 どういうことかと環は瞬きをぱちぱちと繰り返す。


「あ、あの」

「まあいい、行くぞ」


 ほどなくして指先が離れてゆくと、周はひらりと身を翻して自動車の運転席に乗り込んだのだった。


  *


 帝都の街に到着し、自動車から降りて石畳の道を闊歩する。


 環の住む地域では道の整備がこれほどまで行き届いていない。そのため、通行人が数人歩いただけでと土埃が舞ってしまったものだ、とかつての生活を少しばかり恋しく思った。


 見上げれば、青々とした空の下に煉瓦造りの建物が競いあうように建ち並ぶ。漢字とカタカナが混ざった看板が軒を連ね、田舎町では検討もつかないほどの往来があった。


 白い女優帽を被った貴婦人や、品格のある燕尾服を着用した紳士、ハンチング帽子が特徴の新聞記者らしき人物、ズボンを履いた職業婦人などさまざまな人で溢れ返っている。


 自動車の往来も多く、排気ガスを吸い込んでむせてしまうほどだ。環は人混み慣れをしていないため、歩いているだけでげっそりした。


 本来であれば、動く写真が観られるという映画館や、ステンドグラスが輝くカフェーなどに目を輝かせるところなのかもしれない。しかし、生粋の引きこもりである環の心にはわずかばかりも響かなかった。


「ひいい……人が……多すぎ、ます」


 周がいったいどこに向かっているのか分からない。マダラに関しては、屋台の匂いにつられて涎を垂らしている始末だ。


「あの角を曲がったところに馴染みの店がある」


 威風堂々と帝都の街中を歩む周が、ちらりと環を一瞥した。環の気のせいでなければ、先ほどから貴婦人の視線を浴びている。なんて綺麗な方なの、だとか。流行りの劇団の俳優なのではないか、と噂をする者まであるほどだ。


「あ、あのう……」

「どうした」

「先ほどから、ご、ご婦人の目が……痛いのです、が……もう少し離れて歩いても、よ、よいでしょうか」


 恐る恐る視線を上げると、月のように冷え冷えとした瞳と合致した。びくっと肩を震わせ、環は慌ててうつむく。


「あなたは私の婚約者なのだから、隣を歩いていてもなにも問題はないだろう」

「で、ででで、でも」


 あくまでも偽物ではないか。

 ただでさえ目を引く周の隣にいることで、環にまで人の注目が集まってしまうとは耐え難い。人の目がまとわりつくあの独特な感覚が恐ろしいのだ。


「――あれ、これはこれは……珍しい」


 ある民間会社の前にさしかかった時、環と周に向けて見知らぬ甘ったるい声がかけられた。

 青ざめながら顔を上げると、周とは対照的な美貌をもつ青年が立っている。


 この国では珍しい亜麻色の長い髪はひとつに編み込まれて、結び目には小洒落た桜の花飾りがついていた。

 ──だが。


(この人……軍人さん、なの?)


 その華やかな見た目に、崇高で実直な民の印である軍服が馴染まない。

 しかも、胸もとのボタンを最後まで止めずに着崩しているではないか。襟章やら肩章が豪華であることからも、それなりの階級の者なのだろうと察するが。


 いずれにせよ、なにかと物騒な軍人とはできれば関わりあいになりたくない。物腰が柔らかそうな男ではあったが、環はこの手の人間がもっとも苦手である。


「九條殿が女性を連れているとは。この方はあたらしい婚約者かな。いやいや、君も隅に置けないね」

「……面倒な男に見つかった」

「ええ? 面倒だなんて悲しいことを言わないでくれよ。僕と君の中じゃないか」

「藤峰、あなたに構っている暇はないのだが」

「君はいつも僕に冷たいよね。そこのかわいらしいレディも、そう思わない?」


 突然環に振られるのだから戸惑った。身をかがめて視線をあわせてくる男――藤峰は、にっこりと笑っているが、どうにもうさん臭さを感じてしまった。


「あ、あの……えっと」

「これは失礼。自己紹介がまだだったね。僕は藤峰静香、軍の特殊部隊を仕切らせてもらっている者だよ。よろしくね」


 気さくに手を差し出されるが、環には即座に応じられるほどの社交性はない。眩しいほどに陽気な男を前にしたら、尻込みせずにはいられない。


 だが、相手は環よりもひとつもふたつも身分の高い軍人だ。挨拶くらいまともにできなくては、あとで殴り殺しにあうかもしれない。がたがたと震えていると、隣からため息が落とされた。


「やめろ。軍人を前にして、怯えているだろう」

「えー、僕はただ、かわいらしいお嬢さんと挨拶がしたかっただけなのになあ」

「余計な問答は不要だ。……行くぞ」


 周は藤峰をあえて遠ざけるように背を向ける。


(藤峰さんは、周さんのお知り合い……なのだよね?)


 周の態度からするに友好的ではないと察するが、藤峰の態度はそれとはまるで食い違っている。


「ああ、それから――令嬢の失踪事件のことだけど」


 いずれにせよ、これ以上他人と関わるのは遠慮願いたい。環が周のあとを小走りで追っていると、藤峰はそれをとくに追いかけもせずに、ただ声色を鋭くした。周は意図せずに足をとめる。振り返らずとも、反応しているようだった。


「君も、これを追っているんだよね。一介のお役人の管轄外だというのに、執心なようで。そんなにこの事件が気になるのかな」


 環は藤峰の張り付けたような笑みに苦手意識を抱いた。表面上は温厚ではあるが、腹の底が知れない不気味さがある。まるで周の意図を探っているようだ。


「なにが言いたい?」

「さあ、なんだろうね」


 藤峰はまたにっこりと目を細めると、環……それからただの猫に変化しているマダラへと視線を向ける。


『にゃ、にゃんごろ~、ごろにゃ』


 何を思ったのかマダラの前に膝をつくと、慣れた手つきで頭を撫でた。


「へえ……君は、不思議な猫を連れているんだね」

『にゃ、にゃ……』


 わずかばかり低い声が聞こえたような気がした。冷や汗をかいたが、藤峰はすぐに立ち上がると、ひらひらと手を振って身を翻す。


「巡回の途中なんだ。上官殿に怒られてしまうから、もう戻るね」

「は、はあ……」

「またね、九條殿。それから……お嬢さんと猫さんも」


 まさに瞬きの間のような感覚だ。颯爽と消えていった藤峰を目で追ったのち、安堵の息をはく。初見の周も恐ろしかったが、表情の意図が読めないという点では、今の男の方が何倍も勝っている気がする。

 猫に化けているマダラを抱き上げると、毛が逆立っていた。


『あ……あいつ、とんでもねえ野郎だぞ』

「え? どうしたの?」

『たぶん、オレが猫に化けた妖だってことに、勘づいてやがる』


 ぶるぶると躰を震わせて、警戒をしているようだ。


「むりもない。あの男には今後も警戒を怠るな」


 いったいどういう意味なのか。あの男からは妖の気は感じなかった。つまりは環と同じ人間だということになるが、マダラが嘘を言っているとも思えない。


 まさか、環のほかにも見識の才のある者がいるというのか。


「あ、あの方は、周さんの御友人……というわけでは、な、ないのですか」

「まさか、友人なわけがないだろう。あれは、帝都妖撲滅特殊部隊の総隊長――藤峰静香。ああやって親密な態度をとって、私の周辺を嗅ぎまわっている」


 周の発言を経て、環は愕然とした。


(妖……撲滅……?)


 そのような機関がこの日の本に存在するとは思いもしなかった。しかも、軍部で特殊編成されているとは。


「帝都妖撲滅特殊部隊は、日の本でも取り分け霊感に長けた者たちで発足された組織だ。帝都を脅かす怪異を取り除くことを任務としているようだが、真の目的はそうではないだろう」


 マダラの怯え具合からして、先ほどの藤峰はかなりの手練れだ。悪意のある妖やモノノケから帝都を防衛する、という点であれば合理的である。

 だが、周の言い方から察するに軍部はよほど信用ならない存在――だとすると。


「あ、妖の、一斉排除を……しようとしている?」


 環は頭の中で方程式を組み立て、解を導いた。


「おそらくは」

「なんでまた、そんな非道いことを」

「人間にとって妖やモノノケは、問答無用で排除すべき、忌々しい存在だ、ということだ」


 環は強く唇を噛んだ。たしかに悪さをしてしまう妖はいる。だが、そうではない妖もいるのだ。

 善人と悪人が存在するように、妖だって同じだというのに。

 幼い頃から妖と近しかった環は、排斥されていく彼らを思うとやるせない気持ちになった。


「あ、周さんは軍部に目をつけられている……ということ、なのです、よね? それなのに、ここまで事件に介入するなんて、き、危険なのではないで、しょうか」

「私のことが心配か?」

「し、心配というか……あなたの正体は……もうすでに、あの方に見破られているのでしょうか」

「いや、あくまでも疑いの範疇といったところだろう。私の気を読んだのは、唯一、環のみだ」


 おどおどと意見を述べる環に対し、周は満更でもない表情を浮かべた。


(わ、私……だけ)


 

 よくよく考えるに、周の正体が妖の――それも鬼である事実を知られるのは、当人にとって至極都合の悪いことなのではないか。


 うっかり軍部に漏らしでもすれば、一大事となる。それなのに、ろくに素性も知らない赤の他人同然の環を容認しているのだ。いっそ妖力をつかって記憶でも飛ばしてしまえばよかったものの、こうして環を街に連れ出している始末。

 もしかすると、このまま未来永劫、仮初の婚約者として奴隷のように使われてしまうのではないか、と最悪な状況まで想定する。


「とにかく、あの男に関してはくれぐれも用心するように」

「……は、はい」


 環は鬱々としつつも、先を歩く周の背を追いかけたのだった。




 周に連れられてたどり着いたのは、西洋のドレスを扱う仕立て屋だった。 まるで宮殿のような豪奢な外観を前にして、環はため息をつく。日の本にいるというのに、ここは異国のようだ。


 やはり、場違いなのではないかと環は猛烈に尻込みをした。帰りたい。帰って書物を読み漁りたい。そもそも、ここに何の用事があるというのだ。


「九條様、お待ちしておりました」

「息災のようでなによりだ。店主、彼女に似合うものを仕立ててもらいたいのだが」

「はい、もちろんですよ。お任せくださいまし」


 店内に入ると、愛想のよい貴婦人が姿を現す。店主、と呼ばれていた女は環を目をあわせるとにっこりと微笑んだ。

 あまりに友好的な態度を前にして、環はどこかの穴に埋まりたくなる衝動に駆られる。びくっと肩を震わせ、とっさに視線を逸らす。


(ひ、人……む、むり……)


 つらい。つらすぎる。というかそもそも、似合うものを仕立てるとはなんなのか。


 環だけが話の流れについていけず、とっさに周に助けを求めるが、満更でもない様子で布地を眺めている。マダラはといえば、立派な革があしらわれたソファーが気に入ったのか、ごろりと寝転がって寝息を立てているではないか。


 環は愕然と肩を落とした。


「では、こちらへどうぞ」

「ひっ……あ、あの、これはいったい」


 いよいよ、店の奥の部屋に入るよう促されると、環は半分泣きべそをかきそうになりながら訴える。

 ちら、と横目を向けた周は、さも当然とばかりに告げた。


「ドレスの一着くらいは必要になるだろう。ここは馴染みの店だ。よい品がそろっている。安心しなさい」

「い……いいいいや、安心だなんて、できるわけ、ない……です!」


 なにを言っているのか、この男は。これほど易々と高価なドレスの贈り物をするとは、どうかしているのではないか。


「だが、今後は社交場に出向く機会も増える。なくてはむしろ不便だろう」

「うっ……そ、それはそう……ですが、そ、その、いただくには……申し訳ないというか」

「かまわないから、黙って受け取っておけ」


 つやつやと輝いている布地を手に取り、肌触りを確認しながら、周は淡泊に告げた。

 そこまで言われてしまうとぐうの音もでない。

 今後周の婚約者として社交場に赴くのであれば、ドレスは必要不可欠だ。むしろ普段着では浮いてしまうばかりか、貧相な娘だとしていじめられてしまうかもしれない。


(貰えるものは貰っておくべき……なのかな)


 環はとうとう押し黙り、店主に誘導されるがままに奥の部屋の中へ入ったのだった。



 ――しかし、それからが地獄だった。


 手早く済むのであれば、少しくらいの我慢もできるだろうと思っていたのが間違いだった。店主によって一通りの採寸がされると、ひと段落する間もなく、何着もドレスが運ばれてきたのだ。


 まるで着せ替え人形のように着脱を繰り返すものだから、環は疲弊した。途中からはもうどれでもよいから、早く終わってくれないかと懇願するほどだった。


「あ……あのう、これは、す、少し……」

「まあ! 思った通りですわ! やはり、環様には紅色がぴったりです!」

「で、ででででも、布が……もう少しあった方が、お、落ち着くのですが……」

「今はこれくらい胸もとがあいたデザインが流行しているんですのよ! ああ、かわいらしい! 環様はまさに原石……着飾りがいがあるってものですわ!」


 げっそりしている環をよそに、何故か店主が盛り上がっている。言葉を鵜呑みにせず姿鏡を見ると、引きこもりの田舎娘はどこへやら……どこかの家の令嬢ともいえるような女がいるではないか。


「さあさ、九條様に見ていただきましょう」

「えっ……ああああ、あの、私、いいっ……いいです!」


 唖然としていると、店主に手をとられて部屋の外へと連行されてしまう。


(きっと、なんでもいいから、はやく決めろと思っているに違いない……)


 先ほどから何度もこのやり取りを繰り返している。試着しては周に確認してもらい、違うものを着用する。あれでもないこれでもないと問答が繰り広げられ、かれこれどのくらいの時間この店に滞在しているのだろう。


「九條様、いかがでしょう。お見立てのとおり、紅色がとてもお似合いだと思いませんか?」


環はおずおずと顔を上げる。首の周りや胸もとが開放的であるあまり落ち着かなかったが、周はそんな環をじ……と見つめて、ゆるやかに口角を上げた。


「ああ! そうそう……たしかあのあたりにブローチが……」


 店主が店の裏手へと消えてゆくと、肌にちりちりと突き刺さるような沈黙が流れた。ただ、周からの視線ばかりは一身に感じるため、環はどこかに隠れたくて仕方がない。


「あ、あのう……」


 もう脱いでしまってよいだろうか。正直ドレスの良しあしなど分からない。環にとってはどれも同じようなものだ。それよりも、さっさと帰宅をして、薄暗い部屋に閉じこもって書籍を読んでいたい。


「わ、私、どれでも――っひい!」


 視線を床に向けていると、突然頬に冷たい手のひらが添えられる。

 何を思ったのか、目の前には恐ろしいほどに整った周の顔があるではないか。


「なっ、なななな、なんですか!?」

「……」

「ど、どどど、どこか、おっ、おかしいところでも、あっ、あっ、あるのでしょうか?」

「いや?」


 環はあまりの至近距離にぎょっとする。目汚しをしてしまったのではないかと怯えたが、どうやら気分を害してはいないようだ。


 冷ややかで、艶やかで、誰もがため息をついてしまうほどの美貌。

 どういう了見か、周はそっと耳元に唇を寄せた。


「見惚れていた。よく、似合っていると思ってな」

「‼」


 妖しく、色香のある美声が環の鼓膜を揺らした。

 環は他人から褒められ慣れていない。もちろん、このような極上な絹があしらわれたドレスが自分に似合うとも思っていない。

 それなのに、周の態度が予想とは異なっている。


「あなたは普段は初心なようで、このような姿になると別人のように垢抜けるようだ」

「……っ!?」

「だが、公衆の面前に晒すのは少し、惜しいかもしれない。この剥き出しになった肌から、そそる匂いがする」


 そそる、とはどういうことか。環はごくりと生唾をのんだ。


「──やはり、味見をしておくべきか」


 頬に添えられていた指先が、するりと首すじを撫でていく。

甘美なまでの手つきに、環の脳内は真っ白になった。


「ああああ、あのっ!」


 逃げ出さなければ、ととっさに周の胸もとを突き飛ばす。


「も、もう着替えて、きます。し、失礼しますっ……!」


 ばたばたと駆けだし、試着室へと繋がっている通路を進んだ。


(私がおいしいはず、ないっていうのに。からかわないでほしい)


 昼間だが電燈が灯されている館内は、一人になるととたんに広く感じる。右に曲がり、左に曲がり、気づくと使用していた試着室がどこであったか分からなくなった。


(あれ……)


 店主も連れずに勝手に戻ってしまったからだ。あたりを見回してみても、清掃用の備品が並んでいるだけだ。どうやら見当違いな裏手の方に来てしまったらしい。


 こうなれば引き返すしかない、と思いたった時。


『これはこれは……うまそうな娘御だ』


 背後に――ねっとりとはりつくような気配を感じた。振り返る間もなく、三メートルはある長細い手が環の体に巻き付いた。


(妖……どうして)


 環は気づかないうちに、妖の縄張りの中に入り込んでしまっていた。慌てて走っていたため、気配を察知できなかったのだ。


『食べてもいいかえ? いいかえいいかえ?』

「た……食べないで、いただけ、ると助かり、ます」

『いいかえいいかえ、右手だけでも、どおれどれ』


 よほど腹を空かしているのか、妖は環の言葉に耳を傾けてはくれない。


(目が……正気を失っている)


 妖は基本、人里離れた山の中で暮らすものが多いため、街中にまで降りているものに遭遇するのは珍しい。


 九條家の屋敷は例外ではあるが、あの場は裏を返せば、妖たちにとっての安息の地なのだろう。


『うううぅぅ……はぁはぁ、うまそう、だ』

「うっ……はな、して」


 環は必死に訴えるが、聞く耳をもってはくれなかった。この妖は、猫又のマダラや化け狐の口入れ屋や、鬼の周とは違う。


(どう、しよう……本気で、食べようと、してる)


 だらりと流れている涎。凍えるような妖気。巻きつく腕により腹部が圧迫され、息苦しい。


 妖の性質は基本的には友好的なはずなのだ。

 人間に興味をもち、多少の悪戯をしてしまうことはあるものの、滅多なことがないかぎり襲いかかったりはしない。


 この妖は、いったいどれくらいの人間を食ってきたのか。

 人間の血肉は、あまり摂取しすぎると毒になる。病みつきになり、やがてほしくてほしくてたまらなくさせるものなのだ。

 とりわけ、知性の低い下位の妖が口にしてしまうと、特に気をおかしくさせてしまう。


『うぅぅ……ヒヒヒヒッ、やわらかそうな肌だなあ』

「っ、や、めて……」


 巻き付いている妖の長い腕により、ぎゅう、と体が締め付けられる。


 人間の匂いに、味に──。我を忘れてしまう。

 もしかすると人間社会の中に紛れ、捕食する機会を狙っている妖は、そう少なくはないのかもしれない。


「もし、かして……あなたが……令嬢を、攫っているの?」

『攫う? さあ、なんのことか……知らない知らない』


 一瞬、環の脳裏に華族令嬢の失踪事件がよぎった。

 この店は階級の高い者にとって馴染の店。当然華族令嬢が足を運ぶ機会も多く、こうして館内の隅で息を潜めていれば、絶好の機会は訪れる。もしかすると、この妖が関わっていたりするのではないか――と考え至るのは自然の流れだったが。


『ああ、誠うまそうな匂いだ。よだれがとまらんぞ』

「そんなに食べたら、気が、おかしくなる、よ」

『だめかえ? 右の指先だけでも、食べたい食べたい』


 妖の口から瘴気が吐き出される。環はもろに吸い込むと、ぐったりと腰を抜かしてしまった。


 ここにはマダラがいない。人間の身では妖に太刀打ちできないことは理解していたが、指先を食いちぎられてしまってはたまったものではない。


 のまれまいと抗っていたが、徐々に視界が狭まってゆく。妖の長い舌が、環の手のひらをべろりと舐めてゆく。――意識が朦朧とした時だった。


「おい、誰のものに手を出している」


 胴震えするほどの冷気が、辺りを支配した。


 まるで湖面が一瞬で凍り付くような。恐ろしいほどに冷たく、鋭い声。硝子がはめ込まれた窓がみしみしと振動し、その者は突如何の前触れもなく現れた。


 艶やかな長い髪が視界の隅で流れている。凛々しい角は、鬼の証だ。


『ぎぃやああああああ!』


 すぱん、と乾いた音が響くと、妖の左腕が宙を舞った。鈍い音をたててそれが転がると、環は拘束からようやく解放される。

 のたうち回る妖に冷ややかな視線を向ける――鬼。


『痛い痛い痛い痛い痛い』

「……このような街中にまで、降りてくるとは」

『うひぃぃあああああっ!』

「よほど人間が食い足りないらしい」


 左腕を失った妖は、窓から逃げ出そうと床を這いつくばる。だが、周はそれを許さず、頭部を鷲掴みにすると、ぎりぎりと爪を食いこませた。


『あああああ! やめて、やめて、ころさないでころさないで』


 周は本気で同胞を亡き者にしようとしている。頭の皮膚が裂け、妖はさらに大きな悲鳴を上げた。

 このままではいけない。妖の慟哭を前に、環は残る力を振り絞った。


「だ……め、です」


 鬼の姿をした周は、ぴたりと動きをとめると環を顧みる。


「何故だ」

「その妖は、まだ……間に合う、から」


 ゆらりと立ち上がり、環はおぼつかない足取りで妖と周のもとへ向かった。


「あなたにとって……人間の匂いがする、この街は、よくない。だから、里山にお帰り」

『ううううう……さと、やま?』

「そこで……天狗殿に、清めて、もらえば……きっと、正気に戻れるよ」


 おそらくは、この妖は令嬢失踪事件の黒幕ではない。

 人を食べすぎた妖は、その分知性を身に着けるはずなのだ。この妖との対話ではそれが感じられないことから、おそらくは二、三人を口にして、味を覚えてしまったというところだろう。


「さあ、迷わず、まっすぐ」


 うめき声をあげながら、妖はよろよろと窓枠を飛び越えてゆく。

 里山にむけて消えてゆく姿を目で追い、環はほっと胸を撫でおろした。


 だが、それも束の間。凍えるほどの妖気は、依然背後に立ち込めている。


 おそらくは迷惑をかけてしまった。環はおずおずと頭を下げ、謝罪をしようとしたが、すんでのところで封じられてしまう。いつのまにか、鬼の姿をした周が環の真後ろに立っていたのだ。


「あ、ああの」


 ともすれば、体に腕が回り、強引に引き寄せられる。同時に首筋に長い黒髪が降りてきた。


「──んふっ!」


 がり、と鈍い音がすると、肩もとに痛みが走る。

 冷たい吐息が素肌を撫でていき、身震いがした。

 信じられないことに、周が環の肩に歯を立てていたのだ。


「あんな者、殺しておけばよかったものの。馬鹿め」

「いっ……た」

「堕ちた妖を庇い立てるなど、誠、妙な女だ」


 甘美なまでの声が鼓膜に届く。


(な……にが、起きたの)


 まさか本当に味見をされている?


 思えば、周は普段は人間と同じ食事をしているはずだが、人間も食らうのだろうか。高い知性をもつ鬼族のことだ。人間の味を覚えて理性を失うことはないだろうが、できれば周が捕食する様子を想像したくはない。


「これで、しばらくはもつか」


 周は口もとについた血を舐めとると、月のような瞳をすうと細めた。

 なにがしばらくもつのか、環は動揺のため理解ができない。それよりも、薄い唇から覗く鋭い犬歯とどろりとした血液は目に毒だ。


「な……にをして」


 鬼なのか、人間なのか。思えば、周はどちらでもあり、どちらでもない存在なのだ。妖でありたいのか、人間でありたいのか。いったいなぜ、なんのために人間社会で生きているのか。


 冷たい瞳からは、何の感情も伝わってはこない。


「そう易々と食われてしまっては困るからな」


 環の意識は次第に曖昧になり、瞼が重く閉ざされてゆく。

 おそらくは、妖術をかけられたのだろう。


 ふらりと倒れ込む環を周はそっと抱き止めた。


「馬鹿は、私も同じか」


 環の血の味が、喉の奥にしつこく居座っている。妖どもの気を狂わせるのは十分なほどの甘美な味だった。


「味見など、するものではないな」


 はっと自分自身を嘲笑する。

 硝子に映るのは鬼の姿。いくら高い知性をもつ種族なのであろうと、先ほどの妖とさほど変わらないのだろう。


 周は腕の中で眠る環をしばし見つめ、再び人間の姿に戻るとその場をあとにしたのだった。

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