第44話
彼の指は細い。けれども女性みたいに細い訳でもない。しっかりとした骨格はある。手のひらをを片方ずつ掴まれて分かるけど、きっと握力は強いんだろうなと思う。
けれども優しい彼は、私の手を握り潰す事はしないだろう。
私が新しく住む場所は多分マンションらしい。ユウリが「マンション」と言ったわけじゃないけど、エレベーターに乗ったことは感覚的に分かったら、マンションなのだと思う。
そのマンションは、ケイシが住んでいるところらしく。
ケイシが住んでいる部屋なのに、この場にケイシはいない。
私のそばにいるのは、ユウリだけだった。
「ここから壁伝って…そう、そこがトイレな。もう1回リビングから行こう」
ユウリは何回も何回も説明してくれた。
リビングから、トイレの位置。お風呂のシャワーの使い方まで。
私が移動する場所を、時間をかけて教えてくれた。
私が少しでも頭がパニックになれば、「もう1回、今のところ歩こう」と、何回も繰り返すほど。
何度も「すみません…」と謝る私に、ユウリは「ケイシさんの嫁のあんたに、怪我をさせるわけにはいかないから」と、優しく言ってくれる。
でも、分かってる。
ユウリは実際、そんな事を思っていないことを。
ケイシの嫁の立場ではなく、〝私〟が心配だからこうして説明してくれるのだと。
見えない優しさを、持つようになった男。
もう歩数も覚えた。手探りたけど、ドアノブの位置も分かるようになった。何度も何度もお礼を言う私に、彼は「怪我をさせるなって言ったのはケイシさんだから」と、それを呟いた。
それでも優しいユウリに「…ありがとうございます…」と涙を流す。
ケイシがその部屋に帰ってきたのは、多分、夜だった。
「終わったか?」
そう聞くケイシに、「はい」と答えたユウリ。
私は今、リビングと教わった部屋のソファに座っている。
「飯は?」
「終わってます」
「…もう帰れ。明日の仕事はタカから連絡が行く」
「…分かりました」
ユウリは私に話しかけることはしなかった。ユウリの足音が遠ざかっていく音がする。靴をはく音、玄関の扉が開く音。──バタンと、それが閉じる音。
それが閉じれば私の好きなユウリの足音も聞こえなくなった。
そのかわりに聞こえたのは、ガタ…って音と、カチってした音。その瞬間、鼻にふわりと漂ってくる苦い匂い。ケイシが煙草に火を付けたのがわかった。
彼は暫く、何も話さなかった。
まるで私が見えていないように。
鮮明に聞こえる私の耳の中に、ふ…と息を吐く音や、灰皿らしい所に灰を落とす音も聞こえてくる。
そして、それを擦りつけるような、火を消す音も聞こえ。
「────…あいつが好きか?」
そう聞いてくるケイシに、ゆっくりと、ほんの少しだけ顔をあげた。
どうやら私は透明人間ではなかったらしい。ケイシの目に、私はうつっていたようで。
どう答えればいいか分からなくて、黙り込んでいると、「目の次は口が使えなくなったのか?」と、バカにしたような笑い方をしてきた。
「…くちは……使えます……」
恐る恐る言うと、「じゃあ舐めに来い」と、今度は笑っていない声で言われ。
なめ…?
舐めに来いとは…?
言っている意味が分からず「え…?」と心の声を外に出せば、彼はまた鼻で笑った。
「聞こえなかったのか?お前、耳も悪いのか?」
どう言葉にすればいいか分からない…。
ユウリがいなくなり、今心の中にあるのは恐怖と戸惑い…。背中に冷や汗が流れた。
まるでこの部屋の気温が、物凄く下がったような感覚。
「ここにきて跪いて俺のを舐めろって言ったんだけどな?」
ケイシの言っている意味が分かった時、手の中の汗が止まらなく。
「怒らせるな、さっさと来い」
一気に声のトーンが低くなり、怖くなった私は「……、す、みませ…ん……」と、声を出し、ソファから立ち上がった。
ケイシがいる場所は分かってる。さっき煙草を吸う前にイスを引く音がしたから、多分ケイシはダイニングテーブルのイスに座ってる…。
もうその場所をユウリに何回も教わったから…。
教わったはずなのに、足が震えて上手く歩くことが出来なくて…。
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