第51話

お父さんは何も言わなかった。でも確実に私の声は聞こえていたはずだった。お父さんはシワひとつ変えず顔の向きを戻すと階段をおりていった。


言った、

言った。

これで良かった。


壱成さん、会いたい。

毎日会っているのに。



翌朝、お父さんよりも先に家を出れば、壱成さんがいた。柔らかい雰囲気を出す壱成さんに近づけば、「おはよう」と笑ってくれる。



「おはようございます」


「よく眠れたか?」


「はい、でも、壱成さんに会いたくていつもより早く起きてしまいました」



私の言葉にふ、と、少し口角をあげて笑った壱成さんは、「俺もだ」と本当に幸せそうな声を出してきたから。私の頬が赤く染まりそうになる。



「あんたのことを考えると眠れない」



壱成さんがそう言ってきたから、私の頬が完璧に赤く染まってしまい、あたふたと視線を下に向けた。



「…ちゃんと寝てください……」


「ああ」



──……ガチャ、と玄関の音が聞こえた。今日はいつもよりお父さんが出てくるのが早かった。音に気づいた壱成さんが、音のした方に体を向け頭を下げる。



「おはようございます」



お父さんがいつものように、壱成さんを無視して車に乗り込み、エンジン音がして。ああ今日も無理だったと落ち込みそうになった時、──「佳乃」と、お父さんの声がした。


顔をあげれば、車の窓を開けているお父さんがいて。



「今日の19時、2人でワタリの喫茶店に来なさい。母さんには言っておく」



ワタリの喫茶店。

それは最寄り駅の近くにある喫茶店。──昔、まだ家族が仲良い時に、4人で行っていた喫茶店。

お父さんの表情は変わらなかった。壱成さんの体勢も変わらなくて。「──うん」と、私が頷いたのを最後に窓を閉めた。


車が見なくなり、壱成さんが顔を上げた、私が壱成さんを見つめれば、「佳乃が何か言ってくれたのか?」と、壱成さんが私の頭を撫でた。その顔は少し嬉しそうだった。だけど壱成さんの声の中に〝緊張〟が入っているのは、何となく分かった。



「いえ、壱成さんは優しいと伝えただけです。──私は何もしてません」


「そうか」


「はい」


「……今日、今後の佳乃の話になると思う」


「はい」


「佳乃は佳乃のしたいように」


「…はい」


「佳乃」


「はい?」


「これからもあんたの横にいるのは、俺でいいか?」



壱成さんの横にいるのは……。

私の横にいるのは……。



「──…はい、もちろんです」



私は壱成さんの傍にいることが、幸せなのだから。その日の学校の授業は、長いような短い時間だった。早くお父さんの話を聞きたい気持ちもあれば、反対されるのではないかと、聞きたくない気持ちもある。

もう会うなと、言われるかもしれない。

それでももう私は自由なのだから……。しっかりと自分の気持ちは伝えたい。


夕方、壱成さんが白鳥高校の近くまで迎えに来てくれた。卒業間近の壱成さんの高校は、たまたま早く授業が終わったらしい。

今回もすぐに壱成さんは、壱成さんの元へ向かう私を見つける。壱成さんがどうしてこんなにも早く私を見つけることが出来るのかを知っている私は、とても心が温まった。



「約束の時間までまだあるし、遊びに行くか?」


「はい」


「行きたいところはあるか?」



行きたいところ……。



「分かりません……あまり、遊びには行ったことがなくて。壱成さんはいつもどこに行くのですか?」


「そうだな、いつもは……」



いつもは……?



「俺もあんまり行かないな」


「ずっと家に?」


「いや、そういうのじゃなくて。出かけはするが遊びに行くっていう認識じゃないな」


「そうなのですね」


「何か欲しいものはあるか?」


「欲しいものですか?特には…」


「じゃあ適当にブラブラしよう」



そう言った壱成さんは私の手を握った。壱成さんの手は温かく、そのしっかりとした手が好きで、私も握り返せば壱成さんの横顔が微笑むのが分かった。


背が高く、大人びていて、顔が整っている壱成さんの髪は耳にかけられていた。歩いている最中、その耳を眺めていると私の視線に気づいた壱成さんが「どうした?」と視線を下ろした。


二重幅の切れ長の目をしている壱成さんの目は、丸っこい私の目とは違う。とても形が整っていて綺麗。



「いえ、壱成さんの耳には穴が開いているな、って」



壱成さんは私の手が繋がっていない方の右手で、自身の左耳朶あたりに触れた。



「ああ…、」


「お1つだけですか?」


「そうだな、こっちに1つだけ」


「右耳には無いのですか?」


「開けてない、それに左ももう塞がってるかもしれない」


「塞がってる?」


「暫くピアスは付けてないから」


「暫くとは……もしかして、ピアスをしていると私が怖がると?」


「……そう、かもしれない」



私が怖がるからと、金色の髪もやめ、学生服をきちんと着て、ピアスを外したらしい。数年、あのピアスの穴には、ピアスが付けられてないらしい。



「どうやってピアスを開けるのですか?」


「開ける…、普通ならピアッサーか、ニードルか、安全ピン……とうよりも針があるなら開けれる。画鋲でも」


「痛くは無いのですか?」


「開ける時はそれほど痛くはない、ただまだ穴が完成する前にピアスを変えたりすると、……ピアスの先が皮膚の中に入って…、そっちの方が痛いかもしれない」


「壱成さんはご自分で開けましたか?」


「いや、俺の場合は寝てたら開いてた」



寝てたら開いてたとはどういう事かと思ったけど、何となくピアスの事は分かった私は、「分かりました」と、呟いた。



「分かった? 開けたいのか?」



壱成さんが、少し驚いたように呟いた。



「だめですか?」


「いや、だめとか、じゃないが……」


「私も眠っていたら、壱成さんが開けてくれていた、とかはできますか?」


「あんたが眠っていたら?」


「はい」


「俺が開ける?」


「はい、だめですか?」



壱成さんが確認のように聞いてくる。



「それは無理だ、」



その確認後の返事は、NOだった。

NOと言われた事に、少しだけ驚いた自分がいた。優しい壱成さんはいつも私のことを「分かった」と肯定してくれるから。



「無理ですか?」


「寝ても、起きていたとしても、あんたにそういうことはできない」


「起きていても?」


「例えピアスを作る針でも、あんたにそういうのは向けられない」



ピアスを作る針でも……。

そういうもの。



「あんたの体に傷1つ付けられない」



私の体には……。



「……そうですか、」



優しい壱成さん。

もし優しい壱成さん以外の人が私の耳を開けても、きっと壱成さんは「痛くなかったか?」と、とても心配するんだろうな……。



「……開けたいのか?」


「いえ、ただ、私が開けたらいいなと思いまして」


「うん?」


「私が怖がるから付けてないってことは、逆に私がピアスを付けていれば、壱成さんがピアスを付けれると思ったんです」


「……」


「ピアスって、2つでワンセットなのでしょう?だから片方ずつで2人お揃いにできるな……と、」


「………うん、あんたと同じものを付けているのは、俺も嬉しい。けどやっぱりあんたの耳は俺には開けられない。痛いって顔をさせたくない」


「壱成さん……」


「それはピアスしか嫌か?」


「え?」


「よくあるならネックレスとか…」

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