『ちょっと! 今日大丈夫だった?』

 早退して、ちょうど他の生徒が帰り始める時間帯になったと思った時、珍しく家電に電話がかかってきた。相手は、陽太だった。

「安藤さんから聞いたよ。大怪我して早退したんだってね。そんなに重い怪我だったの? 携帯も何故か繋がらなかったし」

「ああ……ううん。違うの。勘違いさせちゃってごめんね」

 安藤さんから、という言葉が少し癪に障ったけど、陽太に悟られないよう明るい声音を心掛ける。

「転んだ時さ、お化粧が剥がれちゃって。保健室の先生とは問題なく会話できたんだけど、流石にクラスじゃこうは行かないなって思って。それと……へへ、何か面倒くさくなっちゃって」

「ああ、そっか……学校に道具持ってこれないもんね。でも、骨折したとかじゃなくて本当に良かったよ」

「うん……携帯も転んだ弾みで割っちゃって、使えなくなっちゃっただけ。だから、そんなに心配しなくて大丈夫だよ?」

 電話越しで、陽太のホッとしたような溜息が聞こえてくる。本気で心配してくれていたことが解って嬉しく感じつつも、同時に申し訳なくなった。

 お化粧の事情で察してくれるのは、いつも姫乃と陽太だけだった。

 いつからだったか、わたしはお化粧が剥がれると、正気を失ってしまう。弱い自分が表面に浮き出てしまうかのようで、不安で仕方なくなってしまうのだ。だから、仮にお化粧が剥がれた時は、いつも保健室に籠るか、早退して逃げてしまう。

 姫乃はお化粧を教えてくれた当の本人だし、元からサバサバしてるから「別にいいんじゃない?」なんて適当にあしらってくれる。陽太には「可愛いもの好き」の秘密と引換えに教えたから、知っていてくれる。それだけじゃなく、他の人と明らかに違うわたしの特性を、個性だと認めてくれる。だからわたしは、陽太のことが好きだった。

 お化粧なしで、こうして堂々と会話できるのも、そのお陰なんだと思う。

「……でも、本当に良かったよ。心配しすぎかもしれないけど、実は話を聞いた時、嫌な予感がしたんだよね」

「……嫌な予感?」

「そう。さっき、安藤さんからこの話を聞いたって説明したじゃん?」

 陽太の声音に不安になりながらも、わたしは相槌を打った。

「その時思ったんだよね。もしかして美優、嫌がらせを受けたんじゃないかって」

「……えっ」

「だってほら安藤さんさぁ、中学の頃から美優のこと、目の敵にしてる節があったから。それにいつも美優のことを話題にする時、急に態度を変えるからさ。今日もそうだったんだ」

 ……勘付かれてたんだ。

 本当に、大馬鹿。陽太だけは、何があっても心配かけちゃいけないって決めてたのに。

「だからもしかして、って思ってたんだ。違ってたらごめんね。でも、もし仮に俺のせいで美優のこと傷つけてたら、流石に自分のこと許せなくなっちゃうからさ」

「……もう、やだなぁ。陽太ったら。そんなことあるわけない──」

「もしさ」

 いつも人の話を真摯に受け止めてくれる陽太が、珍しくわたしの言葉を遮った。

 続く言葉を聞くのが怖くて……思わず身構えてしまう。

「もし、本当に安藤さんから俺のことで嫌がらせを受けているんだったら、俺たち……距離を置いた方がいいんじゃないかな」

「……えっ? 何を言って──」

「俺さ、美優のこと幼馴染としてだけじゃなくて、一人の人間として大事に思っているんだ。だから、これ以上美優が傷つく姿を見るのは、耐えられない」

「陽太……?」

「中学の時もそうだった。俺の見ていないところで、美優が一生残るような傷を負って……また同じようなことが起きたらって考えたら、怖くて仕方ないんだ」

 陽太の声が、微かに震えていた。

 一つ、わたしは勘違いしていた。陽太はただみんなに平等に優しくて、それ故に色んなことを人知れず抱えて色々と考えすぎているんだと思ってた。昨日の帰りに落ち込んでいたのも、その一部なんだと思ってた。

 だけど……違ったみたいだ。わたしの依存している以上に、陽太はわたしのことを大事に思ってくれていた。昨日のあの落胆も「心配」という一言で片付けたらいけないほど、深刻な意味を含んでいたのだろう。

 だって、不可抗力だったとはいえ、自分で直接的に美優を傷つけたのだから。

「……ごめんね。急にこんなこと言っちゃって。でも、もし本当に俺といるのが嫌だったら正直に言ってね? それでしか美優を守ることができないからさ」

 ああ……もう本当に優しすぎる。

 馬鹿が付くほど……優しすぎる。

 だけど、それは違う。

「それは違う……間違ってるよ!」

 気づいたらわたしは、受話器に向かって叫んでいた。

 きっと、陽太は今頃、目を丸くしている。両親が仕事で不在だったことが、不幸中の幸いだった。

 途端に不安になった。自分の醜い部分が出ていないか、心配で仕方ない。

 だけど、ここまで来て感情を制御できるほど、わたしは器用じゃない。

「大切に思ってくれるのなら、一緒にいてよ……傍にいてよ! 傷つけたくないって思ってくれるのなら、その傷を癒せるように責任持って支えてよ!」

「み、美優……?」

「この際だから言うけど……わたし、もう陽太なしじゃ生きていけないの! 依存しちゃってるの! 陽太の声を聞けないと不安で仕方なくなる。誰かの手に渡ったらと考えたら、心臓が破裂しそうになる……それぐらい、陽太の存在が大切なの!」

 駄目だ……何言ってるんだろう、わたし。

 想いが止まらない。ワガママになってる。このままだと嫌われる。陽太に嫌われる。

 でも……止まれない。頭がグルグルして、理性が働かない……!

「……何言ってるんだろうね、本当に。馬鹿だよね、わたし。でも、わたしのことを大事にしてるって言った、陽太が悪いんだからね? そんなこと言われたら、抑えられるものも抑えられなくなるよ」

 受話器を掴む力が、強くなっていた。

「だから……責任取ってよ。わたしと一緒に居続けて。虐められるとか、そんなのどうでもいい。わたしはただ……陽太が欲しいだけなの!」

「…………美優」

 陽太にそう呼ばれて、ハッと我に返る。

 本当に何を口走っているんだ、わたしは。想いを伝えるのは百歩譲って許すとしても、虐められてることを認めたらまずいでしょ。そんなの、逆に陽太と一緒に居られる可能性が下がるだけじゃないか。

 どうしよう。陽太は何て答えるんだろう。受話器に手汗が滲んでいく。

「ごめん……本当にごめん」

「────っ」

 そうだよね。流石に引いたよね。気持ち悪かったよね。

 両目に、熱いものが込み上がってくる。

「俺が、馬鹿だったよ。大切にしてるとか、守ってあげたいとか口だけは達者で、行動で示せてなかった。覚悟が足りてなかった」

「…………」

「だから……もうやめにする。幼馴染とかいう曖昧な関係じゃなくて、ちゃんと覚悟を示せるような関係で在りたい」

「うん、そうだよね…………えっ? つまりどういうこと?」

 聞き間違いだっただろうか。

 その言い方だとまるで……でもわたしの思い違いだった可能性も。

「美優」

 小恥ずかしそうに、けどハッキリとした声で、陽太はわたしの名前を呼んだ。

「俺、美優のことが好きだ。一人の人間としてだけでなく、ちゃんと異性として」

「え…………ええっ?」

「だから……俺と付き合ってほしい。ちゃんと隣に立って、美優のこと守らせてほしい」

 涙が、止まらなくなった。

 嬉しい、嬉しい……嬉しい。

 今まで空っぽだった胸の中が暖かいもので満たされて、全身に行き渡っていく。嗚咽が漏れそうになって、思わず口を抑えた。出会ってからずっと望んでいた願いがやっと叶って、幸せで身体が溶けてしまいそうになる。

 ……今からタイムスリップして先週の「わたし」に報告したら、どんな顔するかな。

「本当に……いいの?」

 急に不安になって、情けない泣き声でわたしは陽太に問うた。

「わたしなんかで、本当にいいの? 面倒くさいし、嫉妬深いし、きっと今まで以上に執着しちゃう。それでも本当にいいの……?」

「……へへ。今更何を言ってるのさ。いつも言ってるでしょう?」

 受話器の向こうで、陽太が優しく笑った。

「どんなに面倒くさくても、嫉妬深くても、美優は美優だよ。どんな美優でも俺は好きだし、大事に思ってる。だから、そんなに自分を責めないで」

 ……もう、ここまで言われたら、耐えられないじゃないか。

 抑えきれず、わたしは電話越しで泣いてしまった。情けないことに、鼻水をすする音も、嗚咽も、全部聞かれてしまったと思う。そんなわたしを笑うことも貶すこともせず、陽太は泣き止むまでずっと待っていてくれた。

 今までの「好き」を大きく凌駕するぐらい、「好き」で満たされていた。

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