……こんな時に限って、変なこと思い出すなんて。

 わたしって、ホント馬鹿だな。

「アハハハ! いいザマ!」

 トイレの個室の嫌な匂い。横腹の突き刺すような痛み。

 ……全身を滴る、冷たい水。

 陽太と約束を交わした次の日の学校は、最悪の形で幕を開けた。

「なに? アンタ化粧つけてたの? ガチでウケる」

 文字通り上から目線で、彩日は嘲って笑う。

「どうせほっぺたの痣の跡隠すためだろうけど……超絶ヘタクソ。そんなうっすい化粧じゃ、アンタのブサイク顔は誤魔化せないわよぉ?」

 ……間接的に姫乃を侮辱されて、正直むかついた。むかついたけど、怒りを強引に呑み込む。ここで憤慨しても、相手側を優勢にするだけだ。

「どうして自分がこんな目にぃ、なんて思ってるんでしょうけど、アタシ忠告したわよねぇ? これ以上陽太に関わったら、痛いじゃ済まないって」

彩日の背後でクスクスと、侮辱を含んだ笑い声が二人分聞こえてくる。個室の壁に遮られて正確には解らないけど、どうせボスみたいに醜い顔してるんだろうな。

「これもね? 全部陽太のためなのよ? あの子に悪い猫が寄りつかないように、アタシが守ってあげてるの」

 ……よく言うよ。陽太の気持ちなんて微塵も解ってないくせに。

「アタシが部活で監視できてないなんて思った? 大馬鹿ね。アンタみたいな根暗と違って、アタシには友達がたくさんいるの。『見かけたら連絡してぇ』ぐらいだったらお願いして回れるわよ」

 友達ねぇ……下僕とか駒と言い間違えてるんじゃない?

「だから、いつでも監視されてるつもりでいた方がいいわよ? 周りはみんなアタシの味方。アンタの味方なんて一人もいないんだから」

「…………っ」

「……まだそんな顔できるんだ。アンタも懲りないのね。なに? もしかして威嚇のつもり? ……はは、目障りなだけなんだけど!」

 急に声を荒げたかと思った次の瞬間、脇腹に強い衝撃が走る。

 その勢いで便器と衝突し、肘の辺りを打撲する。全身に染み渡る激痛。思わず意識が飛びそうになった。

「いっつも生意気なツラして! アタシを侮辱して……所詮、強がってるだけの弱虫のクセに!」

 左肘を蹴られる。

 抵抗したいけど、身体が動かない。今度は抑えたいからじゃない。純粋に恐怖心で、身体が震えて動かなかった。

 ……お化粧が、化けの皮が剥がれたことを、思い出してしまったのだ。

「アタシが罰を下したら、今度は被害者ヅラ? 舐めてんじゃないわよ! 全部アンタが悪いのに……アンタが陽太を誑かすから悪いのに!」

 腹を、踏み込まれる。

 衝撃で床に、叩きつけられた。痛いというよりも、苦しい。冷たい。

 上手く呼吸ができなくて、整えたかったけど、目の前の悪女がそれを許してくれるはずがなかった。

「……生意気なのは、姉妹で変わらないのね」

 吐き捨てるように彩日は言うと、こちらに近づいてきて、思い切り胸ぐらを掴んだ。

「アンタの姉さん──姫乃先輩も、いっつもアタシを侮辱してきた。部活でちょっとアクセ付けてきただけで、グチグチ文句言ってくる。練習中に友達と話してる時もそう。アイツらが立てた練習メニューが退屈なのが悪いのに」

 苦痛で霞む意識の中で、わたしは思い出す。

 そっか、そうだった。姫乃は彩日と同じバレーボール部出身だった。

「中学でようやく居なくなったかと思えば、高校でも同じ学校の同じ部活にいて……アンタもそうよ。ようやく陽太を独り占めできるかと思えば、高校でも同じクラスになってて。アンタら姉妹は疫病神か」

「…………」

「姉の方はもう卒業したからいいけど……アンタももうアタシの視界に入らないでくれない? その陰気臭さと生意気な態度が嫌で仕方ないの。吐き気がするぐらい」

 ──次、アタシに逆らったら……殺してやる。

 そう言って、彩日はわたしを個室の壁に投げ捨てた。ドン、と鈍い音が響いてから一呼吸空いて、カタン、とやけに軽快な音が鳴った。

 壁に仕込ませていた、わたしのスマホだった。

「は? なにアンタ。ガチで笑えるんだけど」

 落ちたスマホを拾い上げて、彩日は画面をまじまじと見つめる。そして、鼻で笑った。敵の計画を看破した、悪徳会社の社長のような表情だった。

「今の一連の流れを盗撮して、先生に突き付けようとしてたの? は、アンタにしては賢い選択だけど……無駄だったみたいね」

 そうほくそ笑んだ彩日は、あたしのスマホを床に叩きつけて──。

 踵で画面を、踏み割った。

「────!」

 端末の周りに飛び散る、硝子の破片。スマホってこんな簡単に壊れるものなんだ。わたしの中の冷静な部分が、そんな無駄なことを実感していた。

「……モップちょうだい」

 でも、これだけじゃ終わらなかった。取り巻きの一人に手を差し出した彩日はモップを受け取ると、柄の先端でひび割れた画面を思い切り、突き刺した。何度も、何度も、目も当てられないぐらいの惨状になるまで、何度も先端を叩きつけた。

 ……ひどい。ひどすぎる。

 これじゃあ、もう使い物にならないじゃん。

「……これでいいわ。満足した」

 そう呟いて取り巻きにモップを返すと、彩日はさっきまでスマホだった鉄の塊を指で摘まんだ。パラパラ、と硝子の破片が床に落ち、日光に触れて煌めいていた。

「このゴミはアタシが回収してあげるわ。アンタも不用品をいつまでも持ってるの、嫌だものね」

 何も、言い返せなかった。

「それとアタシ優しいから、今から保健室に連れて行ってあげる。蹴ったところ、痣になったら大変だものねぇ? ああ、何て優しいのかしらアタシ。憎いヤツにも救いの手を差し伸べてあげられるなんて」

 わざとらしく、高らかにそう言うと、取り巻き二人はクスクスとおかしそうに笑った。

 こうして二人はわたしの腕を絡ませると、無理矢理引き上げられてその場に立たされた。これから女子トイレを出る。そう思ったところで、彩日はわたしの目をじっと見据えて、冷めた声で言った。

「……最後にもう一度言ってあげる。もう二度と陽太に近づかないで」

 気持ち悪い感覚が、一気に全身を駆け巡った。


 保健室に到着したのは、ちょうど朝礼が終わるタイミングだった。

「偶然にも美優が転倒したところを見つけちゃって……応急手当はしたんですけど、今すぐ保健室に連れて行かなきゃって思って……」

 相変わらず、彩日は狡猾な女だった。扉を開けるや否や、保険医の先生に慌てたような表情を作り、猫撫で声で偽りの情報を吹き込んだ。どうせ一限に遅れて入った時も、同じ説明をするつもりだろう。これでは、どっちが「猫」なのかよく解らない。

 彩日たちが去った後、わたしは言われるがまま先生の治療を受けた。ただ質問や指示に頷く、糸に繋がれた操り人形。お化粧が剥がれた今になって理想の自分に近づくなんて、我ながら皮肉が効いてる。

「彩日ちゃんっていい子ねぇ。一限始まりそうなのに、他の子のことを気にかけられるなんて。普通じゃできないわ」

 若干、頭髪が白く染まりかけている、初老の女性保険医。彼女のその言葉に深い意味はなく、善意を含んでいることは大体察している。

 そのせいもあってか、凄く申し訳ないけど……正直吐きそうになった。

「あなたもいい友達を持ったわね……あ、ちょっと待っててね。すぐ着替えのジャージを持ってくるから」

 わたしが頷くと、先生は隣の部屋へと行ってしまった。誰もいない、孤独な保健室。暖かな陽の光だけがわたしを慰めてくれる中で、不意に思った。

 今日はもう……早退しようかな。

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