華恋の地獄

 赤子の鮮血をぶちまけたような、朱色の空の下に真っ黒な山脈がそびえている。

 厳めしく峻険な頂から真っ赤な溶岩が噴き出した。噴石が雨あられのように落ちていて、焼け焦げた大地をうろついている数多の亡者たちへと直撃している。ある者は腕をもぎ取られて、ある者は頭の半分を失った。石で体を砕かれなくとも、漂っているガスは猛毒であり、息をするごとに肺は焼けただれて、体に触れれば皮膚が糜爛する。だが。この地に死が訪れることはない。だから、どんなに酷い怪我をしても生き続けるしかないのだ。

 茫洋たる焼けた荒野を、華恋は一人で歩いている。この地に落ちてきてから天使の能力は消滅していた。苦痛を感じ、飢えや渇きに悶え、孤独に苛まれている。灼熱の大地に足は焼け爛れ、針の山で体中が傷つき、瘴気混じりのガスで喉も痛めつけられていた。

 こん棒で亡者を叩き潰している青鬼のそばを通り過ぎる。痩せた女の亡者が赤鬼に首を絞められていた。数十年前にも見た光景であり、つまり数十年間、同じ事をされていた。それはこれからも延々と続くのである。

 有刺鉄線で全身を巻かれている男が近づいてきた。中年で高位の軍服を着ており、ちょび髭が特徴的だ。ドイツ語で始終呟いており、ときどき激昂して怒鳴り散らかしていた。太い巻きヅノの羊に突進されて、何度も転げまわっていた。羊は執拗であり、狂ったようにツノをぶつけ、足蹴にし、噛みついていた。彼は喚いているが、華恋は無視して歩き続ける。動物がむさぼる音が、あたり一帯をさらに汚していた。

「なあ華恋、おまえさんがここに来て、どれくらいの時が経ったんだ」

 黒い身なりの禿げた男が話しかけてきた。大鎌を持ち、陰気な表情を絶やすことがない。華恋は歩く速度を緩めなかった。やや下を見ながら進み続けている。死神を気にしていないようだ。

「二百十二年だ。二百十二年の間、おまえさんは歩き続けているじゃないか。なにをするわけでもなく進んでいるだけだ。ここは天使がいていい場所ではないんだ。悪いことは言わん、いますぐにでも立ち去れ」

 地表から針が突き出している。禿げた男はそれらを踏まぬように注意していた。華恋は意に介さずに踏みつけた。痛みになれたわけではない。拒まないことになれているのだ

「地獄に、天使が導くべき魂はないんだ。なのに、なぜ歩み続けるのだ。神の命令か。神が天使であるおまえさんを地獄送りにしたのか。なんて酷いことなんだ。まったく、神も仏もあったもんじゃないな」

 全身真っ黒な悪魔がやってきて、死神が持つ大鎌を触ろうとしている。シッシと追っ払うと、まだ怪訝そうに見ていた。

 死神はしつこかった。華恋が地獄に落ちて二百二十七年になるまでついてきた。溶けるほどに熱せられた大地、鋭い針の山、あちこちで繰り広げられる残忍な仕打ち。彼の随伴はそれらのどれよりも苦痛であったが、天使は一言も発せずに耐え続けた。歩み続けることが、なによりも大切なのだ。



 千年が経った。

 多くの悲惨、いくつもの最悪を見てきた。どれだけの険しい山を越えたのか、数えることすら徒労と思える時を過ごしてきた。

 なだらかな丘に華恋がいた。そこには曼殊沙華、すき間なく咲いていた。暗く陰鬱な世界に、真っ赤な色彩がよく映えていた。 

 姉は、のべつまくなく血を吐き続けている。妹の口からは業火が放たれていた。言い知れぬ苦悩を背負いながらも、家族が集う丘に花を絶やすことはなかった。

 天使が背中の翼を開いた。羽毛は大半が抜け落ち、残された箇所もところどころ茶色に変色している。太い骨がむき出しになっていて、見るからに痛々しく貧相であったが、華恋は羽ばたかせた。ごくわずかな風が吹き、血や炎を吐いていた女たちに触れた。やすらかな眠りを約束されたことに安堵し、真っ赤な花の群落へ静かに倒れた。散った花弁がふわっと波紋をつくり、二人の死体の上に舞い降りた。

 丘の頂上に少年がいる。しゃがんだまま、たくさんの花に隠れるようにして動かなかった。華恋がそばまで来るが、彼は顔をあげない。より小さく縮こまろうとしている。少年と同じ高さまで屈んだ天使が耳元で囁く。

「さあ、いきましょう」

すると頑なだった痩せた体が、すーっとほぐれた。さらに連れ添って立ち上がると、 最後に彼の名を呼んだ。

「トミノ」

 どこかで「ホーホケキョ」が啼くと、遥か暗闇の空から一条の光が差し込んできた。華恋が舞うのは千年ぶりである。 

  

 

    

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猫屋敷華恋が舞い降りる 北見崇史 @dvdloto

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