one of them
{一人目 教授}
「ネコヤー君、お茶のおかわりはどうかね」
「はい。ええっと、では、いただきますね」
猫屋敷華恋がカップを差し出すと、ブリキのヤカンから生ぬるくなった番茶が注がれた。
「教授は飲まれないのですか」
「カップが一つしかないんだよ。まあ、私は朝からたっぷりと飲んでいるから」
教授がそわそわしている。水分のとり過ぎでトイレに行きたくなっているのだと、華恋にはわかっていた。
「教授、おトイレに行きたいのでしたら、ネコヤーは気にしませんので、どうぞ」
「君が気にしなくても、私が気にしてしまうだろう。うら若き淑女の前で放尿はできんよ」
「いちおう、{ついたて}はありますね」
「ごらんの通り、しゃがんで見えない程度の高さでしかないんだ」
洋式便器の目隠しには、大きさが中途半端な板が一枚あるだけだ。
「では、座ってすることをおすすめします」
「君ィー、男は立ちションだろう。座ってなんて、そんなみっともない姿で用を足せるか」
教授と華恋は正座をして対面している。部屋が極端に狭いので、二人を隔てる距離はほとんどない。呼吸を繰り返しているだけで、相手の体調がわかるくらいに接近していた。
「まあ、でもネコヤー君が憂慮しないのであれば、差し迫った生理現象を解消させた方がいいのかもしれないな」
ウン、と華恋がうなずいた。教授が立ち上がり、二歩ほど移動して間仕切り板を越える。素早くズボンとパンツをおろして腰かけた。
「まったく、この部屋の造りはどうなっているのかねえ。便器がむき出しとは狂っとるよ」
「ここにいることを、教授は後悔していますか」
「後悔もなにも、{あいつ}がやったことだからね。こちらとしては、とばっちりみたいなものだよ」
「ですが、人殺しを止めはしませんでしたね」
水洗の音が響いた。たいして水量がないわりには、耳障りすぎる音量である。
「それはまあ、人体の生物学的な構造には興味があったよ。学術的にという意味でね」
ズボンを完全に整えていないのに教授が戻ってきた。
「おぞましいおままごとをして、なにか得るべきものがありましたか」
「ネコヤー君は、可愛い顔してなかなかに辛辣だねえ」
「どういたしまして」
軽く一礼をして謝意を表した。
「ところで教授は、どういう教授なのですか」
「どういうって、質問の意図がわからんよ」
「ご専門のことですね」
「うーん、まあ、いろいろだねえ。私の研究対象は多岐にわたるんだ。なにか一つに絞って研究とか、そういう狭量なことではないのだよ」
「ごちそうさまでした」
カラのカップを置いて華恋が立ち上がった。退室の予感に教授がそわそわしている。
「ネコヤー君」
「はい、なんでしょうか」
ナイショ話でもするように、教授が顔を寄せてヒソヒソ声である。
「罪人は、やっぱり地獄行きなんだろうか。私はね、そんなに本気じゃなかったんだよ。ちょっと哀れな気もしてたし」
「気になりますか」
「ま、まあ、私は傍観者だから行くことはないんだけども」
華恋の、なにもかも見透かした視線を受けて、教授はおもわず下を向いてしまう。
「大丈夫ですよ」
モジモジとしていた男の表情に一筋の光明が差し込んだ。
「教授は地獄に落ちますね」
見開いた男の目玉に、華恋の姿はもう映っていなかった。
「くっそー、あばずれの死神がーっ」
狭い独房の中に野太い声が響き渡った。
{二人目 歌のお兄さん}
「やあネコちゃん。お久しぶりだねえ」
お兄さんがそう言って、突如として現れた華恋をギュッと抱擁した。
「今日はどんな歌を聴きたいのかな。じつはね、ネコちゃんにピッタリの曲をチョイスしておいたんだよ」
当然のように華恋が押し返すと、あんがいと未練なく離れた。ただし独房の中なので、密着感は残っている。
「ではレイクイエムを、お願いしますね」
「それは・・・」
華恋のリクエストに、お兄さんの表情が冴えない。
「ぼくはね、明るくて楽しくなるような曲が好きなんだ。鎮魂歌は趣味じゃないんだけどな」
「被害者の皆様の魂を鎮めたいのですよ。良心が痛まないのですか」
「死んでいった人たちには同情するけど、ぼくが決めたことじゃないから関係ないかな」
「お兄さんは殺人罪で逮捕されましたね。関係ないとはどういうことですか」
「だから、それは{あいつ}に巻き込まれただけ、ぼくのせいじゃないんだよね」
華恋が言いきる。
「レクイエムをお願いします」
「だから、ぼくはキリスト教徒でもないし、そんなの歌えないよ」
お兄さんは乗り気になれないようだ。
「コンビニでアルバイトをしていた女子大生には歌ってあげましたね」
「そんなこともあったかなあ」
覚えていないような口ぶりだが、その時の記憶が色あせることはない。彼のアーカイブにしっかりと保存されている。
「彼女の首を絞めながら口ずさんでいましたよ。亡くなるまでに五分半かかりました。極限の苦しみの中で、歌のお兄さんのさえずりを聴いていたのです」
「でもレクイエムじゃないよ。あれはたしか」
「歌ってください」
「え」
「ネコヤーは聴きたいですね。歌のお兄さんの{歌}をです」
お兄さんの頬が少し赤くなった。
「もちろん、あの時と同じ行為をしながらですよ」
「あの時の曲を、ネコちゃんで歌っていいのかい」
「あの時だけではなく、家出した女子高生をドブに浸けて溺死させた時のもお願いします。浸けては引き上げて、また浸けては引き上げて、汚物をたっぷりと飲み込ませて吐き出させて、とてもサディスティックで残虐な殺し方でしたね」
「だから、それをやったのは{あいつ}で、ぼくはその場で歌っただけだよ」
面と向かって言っているが、華恋の目線とかち合わないように、やや左下方へずらしていた。
「{あいつ}がなかなかキメないから、三番まで歌っちゃったんだ」
へらへらと笑うが、その強がりを鉄血の瞳が見つめている。
「では、お願いしますね」
「わかったよ」
二度ほど深呼吸をした。
「じゃあ、やるよ」
お兄さんの両手が華恋の首にかかった。存外に柔らかくて、力を込めなくても、すーっと沈み込んでゆく。その底無しの感触に戸惑いを覚えた。
「いやいや、ぼくにはできないよ。今日は{あいつ}がいないんだ。だから歌うだけにしたい。だから、こんな感じでどうだい」
首から手を離して、お兄さんが歌いだした。目をつむって、誰もが知っている童謡を口ずさむ。
「そんなヘタクソな歌は」
耳元で華恋がささやいているが、目を開けようとしないので、どれくらい近づいているのかわからない。できるなら離れたいと思うお兄さんだが、その先を聴きたい気持ちもあった。
「地獄で歌ってください」
華恋が言い終わった途端に、お兄さんが喚き出した。
「死神退散、死神退散、死神出ていけ、出ていけー」
その響きは、もはや歌ではなかった。
{三人目 JKナオミ}
「ねえ、ネコヤー、そのセーラー服かわいいよね。あたしの学校のブレザーって、すっごいジミなんだよ。みんなジミ子ちゃんでさあ、セーラーのほうが、だんぜんよかったなあ」
華恋は正座している。ナオミは立ち上がって、落ち着かないようにウロウロしようとしていた。しかし三畳ほどの独房内では勝手気ままに歩くことはできず、何度か足踏みをして気を紛らわしている。
「ナオミさんは」と華恋が言いかけた。
「ナオミでいいよ。さん付けとかやめてよね」
パパッと手を振って言った。華恋の反応は緩慢である。
「ああー、っもう。刑務所って、なんでこんなに狭いのよ。イライラするわ」
「ここは刑務所じゃありませんね。拘置所です」
「同じじゃん。てか、あげ足とりするなってさ。マジ腹立つから」
腕を組んで、華恋を睨みつけた。
「あんたもさあ、突然現れるんだったら、化粧品の一つでも持って来なさいよ。死神なんだから、それぐらいできるでしょう」
華恋は応えない。ちょっと下を向いてからツンとした顔を見せた。
「ま、いいけどね」
髪の毛の先端をいじりながら、さも見下すように言った。
「ナオミさんは、なぜ殺人を止めなかったのですか。あまり乗り気でないこともあったはずです」
チッと、さん付けされたことに舌打ちした。
「他人が死のうが生きようがどうでもいい。あたしになんの関係があるのさ」
「怖いのですか」
「なにがよ」
厳しい視線が華恋に落とされた。
「{あいつ}をですね」
「どうして、あたしが{あいつ}を怖がらないとならないのさ。バカじゃないの。あんなやつ、どうでもいいんだ」
「すみませんでした。ネコヤーが間違っていましたね」
誤りであったことを素直に詫びた。
「では、言い直します」
「あ?」
華恋が立ち上がり、ナオミと対等となった。
「愛しているのですか」
「・・・」
沈黙は肯定を意味する。華恋が畳みかける。
「{あいつ}をですね」
「だったら、どうっだっていうの。あたしが誰を好きになろうが死神には関係ないでしょ。それともなに、死神を辞めて愛のキューピットにでもなろうとしているの」
「魅力的なご提案ですが、ネコヤーに職種の選択権はありませんよ」
「なにが言いたいのよ」
「とても興味深い現象だと思いまして」
「あたしをバカにしてるのか。黙ってろ」
その場が気まずくなったが、華恋はかまわず前進する。
「被害に遭った人たちに謝罪の気持ちはありますか」
「ねーよ」
「女子高生もいましたね」
「そもそも、{あいつ}がやったんだ。罪をあたしにかっつけるなよ」
「ナオミさんもけしかけていました。やれー、やっちまえって叫んでませんでしたか」
「そんなこと、もう忘れたわ」
「もし{あいつ}を愛していなかったのなら、ナオミさんはここにいましたか」
ナオミが格子窓を見ながら、しばし考えにふける。
「それはたぶん」と言って振り返るが、もう華恋の姿はなかった。
{四人目 花魁}
「わっちは、外の世界に興味なんかございませんよ。ええ、なんせずっと囚われの身でありんすからねえ」
「千早さんは、引きこもり少年だったのですか」
「引きこもりもなにも、家から出されのうござりんした」
「それは、お父さまが強いたのですか」
「あの男はクズでありんす。ずいぶんと殴られんした。まあ、暴力を振るわれるのには耐えられんしたが」
千早は憮然とした表情だ。華恋とは目を合わさず、どこか遠くを見ようとしている。
「だけど、性的なことをされるのは我慢ならなかったのですね」
「・・・」
「千早さんのお父さまは男色の傾向がありました。千早さんは力づくで犯されてしまいました」
千早が華恋の前に来て、有無を言わさず柔らかな右頬をビンタした。おもいのほか力強くて、首が二十度ほど傾いた。だが、すぐに立て直して問いかけを続ける。
「お父さまはどうしていらっしゃいますか」
「あんさんは死神でありんすから、知っているでありんしょう」
「お父さまは失踪したことになっていますね。でも、じっさいには撲殺されてしまいました。埋められた場所は息子さんが知っていますよ」
「{あいつ}がやってくれんした。わっちのかわりにクズを成敗したのでありんすよ。どこからともろう来て、あっちを救ってくれたのでありんす。なんの代償も求めず、去っちまいましんた。ほんとに、ありがとうござんした」
花魁らしく、しゃんと整っているけど慇懃無礼なお辞儀だった。もちろん、華恋にではない。そこにはいない者を心に描いて首を垂れたのだ。
「千早さんは、その時なにをしていましたか」
「わっちは見ていただけでありんしたよ。父親への恐怖心があって、動けのうござりんした。あのクズの頭がすっかりと潰れてしまったのを見て、気持ちが晴れんしたねえ」
その時を思い出して、うっとりとしている。華恋は話題を変えて水を差すことにした。
「ホステスさんの喉を切って殺してしまいましたね」
「あの売女は、こともあろうにあっちの上客を横取りしようとしんした。死んで当然のゲスでやんす」
「上客の社長さんは、やはり女の人のほうがよかったみたいですよ」
「あのヘンタイジジイは、男でも女でも子供でも、なんでもいいのさ。犬や猿でも抱きんすよ」
「では、ヘンタイ社長さんの喉を切り裂いたのは、どちらですか」
「{あいつ}でありんすよ。あそこまでやることはなかったのかもしれやしんけど」ぼそりと吐露した。
ドアの向こうに人の気配がしていた。
「夕食のお時間みたいので、ネコヤーはお暇しますね」
食事の配食がなされるので、千早は急いでドアまで行き、引き出しからトレイをとった。
「華恋はん、今度はいつ来るのでありんすか」
「今度来るのはネコヤーではありませんね」
千早が振り返ると華恋は消えていた。独房の中は、いつものように閑散としている。
{五人目 少年}
「あんね、ぼくね、いっぱい見てきたんだよ。血がさあ、ドバーッてでてね、すごいんだ」
華恋は便器に座って聞いている。用を足しながらではない。落ち着きのない少年が狭い室内をせわしなく動き回るので、しかたなくその場所に避難したのだ。
「ネコヤーネコヤー、ネコネコネコネコ、ニャンコだ、ヤーヤー、ぶひゃっ」
自分の愛称をもてあそんでいる少年を、ウザそうに見ながら問いかける。
「お母さまは好きですか」
「母さんは、しらないよ」
「知らないことはないですね。いっしょに住んでいましたね。お父さまが失踪しても、お母さまと一緒でした。ネコヤーは知っていますよ」
「母さんは、父さんがぼくをイジメていても、なにもしなかったんだ。たすけてくれなかった。ほらこれ見てよ、ひどいんだよ」
上着を脱いで、上半身裸となった。背中を便器の方へ向けながら、ずんずんと近づいている。
彼の背中には、荒野にいるヒョウのごとく、赤黒い斑点が無数に描かれていた。それらはタバコの火を押しつけてできたものだ。
「ぼくがおなかがへってどうしようもないから、ごはんをつまみ食いしたんだ。そのときは」母親も一緒になって折檻した。タバコを吸わない女だったが、スパスパと豪気に煙を出して火炎玉を押しつけた。むしろ、彼女のほうが積極的ですらあった。
「でもね、お母さんはしんぱいしてたって、なきながら言うんだよ。ぼくのことがすきなんだって。あいしてるから、おしおきしないとダメなんだって」
彼は失禁していた。ちびってしまったというレベルではなく、ズボンの裾からジョボジョボと流れ落ちていた。
「ぼくね、天国にいきたいんだよ。これから天国へいくんでしょ。ネコヤーがつれていってくれるんでしょ」
「もう一度訊きますよ」
華恋が立ち上がった。便器から離れて、少年の前に立つ。
「お母さまは好きですか」
彼は黙っている。びっしょりと濡れた股間を何度かつまみ、その指のニオイを嗅いでいた。
華恋は続ける。
「お母さまは出血死でしたね。いろんなところを切られて、のたうち回って死んでしまいました。自分がやったことを覚えていますか」
「ネコヤー、ネコヤー、ネコネッコ、ヤーヤー」
彼が騒ぎ出した。大声で叫び、ドンドンと足を踏み鳴らし、しまいには鋼鉄のドアに体当たりをした。たびたびあることなので、刑務官の到着は速やかではない。
「天国には行けませんね。なぜなら、あなたの手も血まみれなのです」
壁に頭を打ちつけていた。夢中でやるので額が割れて出血してしまう。数人の刑務官がなだれ込んできた。
「死神がいるよ、死神がいるよ、ぼくのそばにいるー、ここにいるー」
制服姿の男たちに取り押さえられながら、彼が叫ぶ。
「死神は、きっと来ますよ」
暴れる彼の耳にささやく声が聞こえた。
{六人目 {あいつ}}
「やあ、君が猫屋敷華恋君か。はじめまして、会えてうれしいよ」
「ネコヤーと呼ばれていますね。お初にお目にかかります」
黒縁の眼鏡をかけたその男は、背筋を伸ばして正座していた。木綿のズボンに白シャツはほとんどシワもなく整っていて、きちんとしている印象だ。
「ほかの者たちへ会いに来ているんだってね、華恋君」
「ネコヤーと呼んでくださいな」
「いちおう、僕の許可をとってほしかったな、華恋君」
眼鏡のフレームを指でツンツンしながら、少し語気を強めて言った。
「あなたが、{あいつ}でよろしいですか。皆様が、そうおっしゃっていますが」
「そうだね。僕がみんなの言うすべての{あいつ}だよ。みんなは、すべての{あいつ}の僕でもある」
華恋も正座をしている。めずらしく姿勢は良かった。
「もうすぐ刑務官がきて、あなたを処刑場へ連れて行きます。一人の失踪者を除いて十一人もの人たちを殺めた罪で、あなたは死刑となります。首をくくられますね」
「十一人ってのはどうかな。もっといるかもしれないよ」
そう言って、意味ありげに笑みを浮かべた。
「いいえ、十一人ですよ」
「死神はなんでも知っているんだね」
「知っていることなら、なんでもですね」
この期に及んで、まだ自分を大罪人に見せようとするが、華恋はお見通しである。
「精神疾患者として、ほんとうは無罪になるはずったんだけど、どういうわけか邪魔が入ってね。ごらんの結果さ」
その男は十一件の殺人で起訴され有罪となり、死刑が確定していた。さらに執行の時が迫っている。拘置所内の死刑囚が事前にそのことを知ることはないのだが、シリアルキラーらしい人並外れた直感力で悟っていた。そのことを見越して華恋も話をしている。
「あなたの生い立ちには同情する余地もあります。だけど、だからといってたくさんの人を虫けらのように屠っていいとはなりませんね」
「ひどいなあ、誤解だよ。僕は死んでいった彼ら彼女らを虫けらなんて思ったことは一度もないよ」
「では、あの亡くなった人たちはなんだったのでしょうか」
「材料」
華恋が黙ってしまった。それほど驚いた顔ではない。チラリと鋼鉄のドアを見る。
「もう、お迎えが来たようだね。この狭い部屋は好きになれなかったけど、いざ戻ることがないのだと思うと寂しいな。その薄っぺらで安物の布団に愛着があるんだ。昔の家の匂いがするんだよ」
「あなたのようなヒトデナシにも、センチメンタルな感情があるのですね」
「死神は失敬だね。僕はふつうの人間だよ。そのへんのやつらとさほど変わらない。ただ、ちょっとおもいきりがよくて、無意識に従順で、戦略に長けていただけなんだ。内なる仲間にも恵まれたしね」
その男が身支度を整えるために立ち上がった。といってもすでに完成されているので、襟を余計に正しただけである。
「華恋君も一緒に来るんだろう。なにせ死神だからね。こんなに可愛い子の大鎌で魂を引き裂かれるなんて素敵すぎるよ。首の骨が折れる痛みも忘れるくらいさ」
独房の向こう側で刑務官が番号を叫んだ。まもなく数人の男が取り囲み、逃げ場をなくして連れ出した。
「もちろん、ご一緒しますよ。導かなければならない方がおられますので」
その声は、その男だけに聞こえた。しっかりと届いていた。
{ one of them }
「やっと出てきてくれましたね、拓弥さん」
変わったデザインのセーラー服姿の女子高生が、拓弥の前を後退りしながら歩いていた。前進する彼と対面して話をするには、そういう無理な歩行となる。
「君は」
彼が小さくつぶやくと両隣の刑務官が反応するが、止まることなく歩いている。最期の悪あがきは無視されるのが通例なのだ
「ネコヤーですよ。拓弥さんに会いに来ました。ギリギリ間に合いまして、よかったです」
「俺の人格を出すのはすごく難儀なんだ。いまはみんなが怯えているから出やすくなっているけどな」
「{あいつ}さえもですね」
「そう、{あいつ}さえもだ。いい気になって自分を大きく見せていたわりには、根本は臆病者なんだ。笑っちゃうよ」
フフフと笑うと、華恋も笑顔である。
「取り調べや裁判ではがんばりましたね。解離性同一性障害とならないように、ただ一つの人格で通しきりました。ご立派です。どれほどの困難があったのか、ネコヤーは感心していますね」
「少年やら花魁やら女子高生なんかが出てくると、収拾がつかなくなって精神疾患を認定されてしまうからね。無罪には絶対にしない。俺は地獄に落ちなければならないんだ」
彼はブツブツつぶやき続けているが、消え入りそうな声であって刑務官たちは気にしていない。華恋にだけハッキリと届いている。
「よくほかの方々を押しのけられましたね。エネルギーのいる仕事だったと思います」
「ゲームではないけれど、ライフをすべて使いきってしまったよ。死んでもいいと思っていたから、かえってあいつらは手出しできなかったみたいだ。そのあとは疲れ切って、この瞬間まで押さえ込まれてしまったけどな」
「拓弥さんが出頭し、すべてを話されたので事件が解決しました。ほかの者たちでは、{あいつ}を止めることはできませんでしたから」
「そうでもないよ。父親のことは俺でもしゃべらなかったんだから」
「心中お察しします。ほかの事件だけで十分なのですね」
少しだけボリュームを上げてみるが、周りの態度は変わらない。
「この人たちには君が見えていないのかい」
「ここでネコヤーの存在を感じとれるのは拓弥さんだけなのです」
「さすが死神だよな」
簡素で空虚な手続きがあり、彼は処刑台の上に立った。
「ネコヤーは死神ではありませんね。そう思われるのは、とても心外なのです」
「でも君は死神だから、死刑囚である俺たちに会いに来ていたんだろう」
「違いますね。拓弥さんを導くためですよ」
死刑囚の顔に袋が被せられる直前、華恋の翼がひらかれた。眩しいほどの純白さに目が眩んでしまう。
「君は天使なのか」
彼の視界は閉ざされてしまった。生きて光を見ることは、もうない。首にかかるロープの感触が確固としたものとなった。
「ネコヤーは天使ですね。拓弥さんを天国まで導きます。これから痛いことが起こりますが、一瞬ですので我慢してください」
処刑の瞬間が迫り、刑務官たちの表情が透明になる。
「いや、それはダメだ。いくつもの人格に分裂していたとはいえ、俺は重罪人なんだ。魂は地獄に落とされるべきだ。でなければ死んでいった者たちに申し訳が立たない」
彼の声は大きくなっていた。よくあることとはいえ、刑務官たちは急がなければならないと判断する。
華恋が言う。
「人格が分裂しているのではありませんね」
「どういうことだ?」
「魂が分裂しているのです。拓弥さんの身体の中には、七つの魂があるのですよ」
熟考しているコンマ数秒ほどの時が、彼にはとても長く感じられた。
「それぞれの人格には、それぞれの特徴だけがあるわけではありません。かなり偏っていますが、人としての全体性を形成しています。僅かずつですが、個性化していっているのですよ」
さらにコンマ数秒の時をおいた。
「{あいつ}以外は更生の余地があるということか」
「残念ながら、そのことを論じるには時すでにおそし、です。ただ、あの者たちも殺人を楽しんでいたりしたので地獄行きは免れませんよ。これは基本ですね」
暗闇が終わり、パッと視界が開けた。
「それでは行きますよ」
天使の華恋が音もなく羽ばたき始めた。
「ちょっと待ってくれ。俺は、もう少し考えたいんだ。そのう」
「すでに死んでいますけども、なにか」
ハッとして振り返った。首を吊るされた死刑囚を数人の刑務官が見つめている。
「ほかのやつらは、どうしたんだ。どこにもいないみたいなんだ」
「それはネコヤーの仕事ではありませんね。たぶん、ハゲちゃびんが張り切っているのだと思いますよ」
はるか斜め上方から光が差し込んできた。温かく軽やかで誘因力に富んだ光線が天使と彼を包み込んでいる。
天使が飛び立った。力強い羽ばたきであり、彼もつられて上昇してゆく。途中、落ち込んで肩を落としている刑務官たちに華恋の翼が触れた。すると、後悔と不安、懺悔に苛まれていた心が、ふっと穏やかになった。
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